
ザーリアー朝の実質的な祖であるツヴェンツィボルト
ツヴェンツィボルト/ツヴェンツィポルト(独語:Zwentibold, Zwentipold、870年/871年 - 900年8月13日)は、中世ドイツのカロリング朝のロタリンギア王(在位:895年 - 900年)。ツヴェンティボルト/ツヴェンティポルトとも呼ばれる。
東フランク王国の王・アルヌルフ2世の庶長子で、生母はヴァラホ家(Walaho)のヴェルナー2世の娘(アルヌルフの前妻か愛妾)。東フランク王国の最後の王であるルートヴィヒ4世幼童王の異母兄にあたる。妻はザクセン家(リウドルフィング家)のオットー1世の娘のオーダで、二人の間に夭逝した息子のゴットフリートことゲッツ(Gottfried=Götz)・ザーリ(Sali)や娘のベネデッタ(Benedetta)[1]・ツェツィリーア(Cecilia)[2]・レーレンダ(Relenda)[3]らを儲けている。
概要[]
888年、父のアルヌルフ2世の北イタリア遠征に随行し、イタリアの貴族であるフリウーリ辺境伯ベレンガルがトレントで出迎えて、アルヌルフ2世父子に臣従を誓った。ベレンガルは、西フランク王国(フランス王国)遠征に失敗して、イタリア中部に戻ったローマ近郊の貴族であるスポレート公のグイードを撃破したばかりであった。アルヌルフ2世はその功績を認めて、ベレンガルをイタリア王に任命した。
翌889年にグイードは雪辱を晴らすべく勢いを盛り返して、ベレンガルを攻撃した。そのため、ベレンガルはトレビア(トレビーヤ)でグイードに撃退されて、敗走しながら命からがらにフリウーリに帰還した。代わってグイードがイタリア王と称して、891年に西ローマ皇帝と自称した。これに危惧したアルヌルフ2世は子のツヴェンツィボルトに召し出して、ベレンガルと連合させてグイードを討伐させた。894年に、連合軍は『ベルガモの戦い』でグイードの軍勢を撃破して、ミラノとパヴィーア(パヴィーヤ)を奪還した。間もなくグイードは病死し、アルヌルフ2世率いる軍勢はそのまま南下して、896年に、アルヌルフ2世は西ローマ皇帝となった。ツヴェンツィボルトはこの功績で、父からロタリンギア王を譲位された。
900年にツヴェンティボルトは病死した。享年30あるいは31であった。長男のゴットフリート(ゲッツ)は夭逝して、末子のザーリがまだ嬰児だったために、ロタリンギア王は末弟のルートヴィヒ4世幼童王が後を継いだ。
後にザーリは、叔父のルートヴィヒ4世の命で、祖母の生家であるヴァラホ家のヴェルナー4世(祖母の兄のヴェルナー3世の子)の養子となり、「ヴェルナー5世」と改称して、ヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)伯とシュパイアーガウ伯の爵位を相続し、ザーリアー朝の祖となった。
脚注[]
関連項目[]
- ザーリアー朝
- ヴェルナー5世(ザーリ)
- コンラート1世赤毛公
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