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トルコ系民族の居住地

トルコ系民族(とるこけいみんぞく、独語:Turkvölker/Türkeis、英語:Turkic peoples/Turks、トルコ語:Türk、露語:Тюрки)は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、トルコ諸語を母語とする人々のことを指す総合民族名称である(タタール)。

ウィキペディアで表記されている「テュルク」および「チュルク」はフランス語、英語は「ターク」で、ドイツ語は「トュルク」または「トゥルク」「ツルク」であり、各国によって発音が違う。

人種は原則的にモンゴロイド[1]であるが、コーカソイド[2]と混血したり、あるいは民族的に言語的に「トルコ系民族」であるが、人種的にコーカソイドに属する民族も存在する[3]

民族的にはモンゴル系民族とは近親関係にあり、ツングース系民族[4]は同じアルタイ系民族に属するが、その民族関係はモンゴル系民族と比較して、やや遠い関係にある。

トルコ系民族の起源は諸説があるが、アルタイ山脈付近を境界とするモンゴル高原(ハルハステップ)の北方にあるバイカル湖あたりから中央アジア~シベリア南部のカザフステップ(トルコ高原)と思われ、その一派は東進・南下してモンゴル高原(ハルハステップ)に進出して、中国に脅威を与える存在となったという。

概要[]

フランス語読みの「テュルク」にあたる言葉として、日本語では「トルコ」という形が江戸時代以来使われているが、これはポルトガル語の「トゥルコ」(Turco)が語源であり、しばしばオスマン帝国においてトルコ語を母語とした人々を意味し、現在ではトルコ共和国トルコ人を限定して指す場合が多い。

英語では、この狭義のTürk(トュルク/トルコ)と言うべき一民族をTurkishと呼び、広義のTürk(テュルク/チュルク/トュルク/トゥルク/トルコ)であるトルコ系諸民族全体をTurkicと呼んで区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別がある。これにならい、日本語でも狭義のTürkに「トルコ」、広義のTürkにドイツ語やトルコ語などの「トュルク」をあてて区別する用法があるが、ここでは便宜上に「トルコ系民族」として述べる。

歴史学者の森安孝夫は、近年の日本の歴史学界において「テュルク」「チュルク」「トゥルク」という表記がよく見られるとしながらも「トルコ系民族」という表記をしたうえで、その定義を「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる丁霊(丁零/勅勒)・匈奴・羯[5]・高車・突厥・鉄勒(狄歴)・ウイグル(回紇)・カルルク(葛邏禄)・バスミル(拔悉蜜)・突厥沙陀部などを一括りにした呼称」としている[6]

また、東胡・鮮卑[7][8][9]・烏桓(烏丸)・扶余(夫余)[10]などもツングース系と混血した広義的な「トルコ系民族」とする説もある。日本の主要民族である大和民族日本人/和人)も三分の二近く[11]が古代トルコ人と古代チベット人[12]の血が複雑に入り混じっているといわれている(オスト・タタール古墳人を参照)。

歴史[]

狄(翟)[]

中国史料に狄あるいは翟と記される民族が「トルコ」に関する最古の記録であると考えられている。狄は周代に中国の北方(山西省河北省)に割拠する、中原的都市文化を共有しない牧民を呼んだ呼称である。(商)、(岐)の時代に、多くが戦争によって中原から北方へと追われた。狄には北に位置する赤狄と南に位置する白狄と西に位置する長狄などが存在したが、周が衰えると白狄は春秋時代[13]といった国々に侵入して略奪を行なった。中国諸国と同盟・離反を繰り返しながら存続し、戦国時代には、白狄鮮虞部[14]が河北地方北部に中山国を建てている。中山国は紀元前296年にの攻撃によって滅亡するが、ある一派は漢民族と同化し、ある一派は古代漢民族から北狄・戎狄と総称される異民族として中国の周辺で遊牧を続けた[15]

後世になって北狄・戎狄の語は北方遊牧民族の代名詞となり、四夷の一つとして数えられる。

丁霊(丁零/勅勒)[]

丁霊、あるいは丁零・勅勒と記される民族は、上記にあるように匈奴と同時代にモンゴル高原(ハルハステップ)の北方にるバイカル湖あたりから中央アジア~シベリア南部のカザフステップ(トルコ高原)に居住していた遊牧民であり、これも「トルコ」の転写と考えられている。丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の鮮卑がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。

五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零は中国に移住して翟魏を建てた。

高車[]

モンゴル高原に進出した丁零は南北朝時代に北漢民族(鮮卑拓跋部政権の北魏の支配下の民族)から高車と呼ばれるようになる。これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる[16]。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀にモンゴル系の柔然(蠕々)に敗れて滅亡した。

の李氏も高車大野部、または伏利部(叱李部)出身としている[17]

突厥/鉄勒(狄歴)[]

中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった突厥によって滅ぼされる(555年)。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においた。そのため東ローマ帝国の史料[18]にも「トルコ」として記され、その存在が東西の歴史に記されることになる。また、突厥は自らの言語(トルコ諸語)を自らの文字(突厥文字)で記しているので[19]、古代トルコ諸語がいかなるものであったかを知ることができる。突厥は582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡してしまう。

一方で突厥と同時代に突厥以外のトルコ系民族は鉄勒あるいは狄歴と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。やがて鉄勒は九姓(トクズ/オグズ)と呼ばれ、その中から回紇(ウイグル)が台頭して、葛邏禄(カルルク)・拔悉蜜(バシュミル/バスミル)といったトルコ系民族とともに、東突厥第二可汗国を滅ぼした。

突厥の滅亡後[]

中央ユーラシア全域を支配したトルコ帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったトルコ系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。

モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。その後のウイグルは甘州ウイグル王国、天山ウイグル王国を建てて西域における定住型トルコ人(現代のウイグル人)の祖となり、タリム盆地のトルコ化を促進した。

中央アジアではカルルク・突騎施(ツュルギシュ)・キメク・オグズといった諸族が割拠していたが、10世紀にサーマーン朝の影響を受けてイスラム化が進み、トルコ系民族初のイスラム教国となるカラ・カーン朝が誕生する。

カスピ海以西ではブルガール・ハザール・ペチェネグが割拠しており、南ルーシ(ロシア南部)の草原で興亡を繰り広げていた。11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人/ポロヴェツ)が南ルーシからウクライナクロアチアルーマニアハンガリースロヴェニアオーストリア諸国およびドイツ南東部のバイエルン地方までに侵入した。彼らは、次第に現地のゲルマン系とスラヴ系と混血して、キリスト教に改宗してヨーロッパ文化に同化していった。この一派は13世紀のモンゴル帝国のヨーロッパ遠征まで勢力を保った。

また、7世紀にウラル山脈以西および中央アジア西部に遊牧生活をしていたトルコ系のブルガール人[20]が東欧のバルカン半島に侵入して、現在のブルガリアブルガール帝国(第一次ブルガール帝国・第二次ブルガール帝国)を建国した。ブルガール人も次第に現地の南スラヴ人と混血して、スラヴ化してキリスト教に改宗したブルガリア人の祖となった。

トルコ系民族のイスラム化[]

トルコ系国家で最も早くイスラムを受容したのはカラ・カーン朝であるが、オグズから分かれたセルジューク家率いる一派も早くからイスラムに改宗し、サーマーン朝の庇護を受けた。彼らはやがてトゥルクマーン(イスラムに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040年にガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから正式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。このセルジューク朝が中央アジアから西アジア、アナトリア半島にいたる広大な領土を支配したために、トルコ系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。

また、イスラム世界において奴隷としてのトルコ(マムルーク)は重要な存在であり、イスラム勢力が聖戦(ジハード)によって得たトルコ系人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク朝、奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。こうした中でトルコ・イスラム文化というものが開花し、数々のイスラム書籍がトルコ諸語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラム世界におけるトルコ語の位置はアラビア語・ペルシア語に次ぐものとなり、トルコ系人はその主要民族となった。

西域(トルファン・タリム盆地・ジュンガル盆地)のトルコ化[]

840年にウイグル可汗国が崩壊すると、その一部は東トルキスタンの天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を形成した。天山ウイグル王国はタリム盆地・トルファン盆地・ジュンガル盆地の東半分を占領し、マニ教・仏教・景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。一方、東トルキスタンの西半分はイスラムを受容したカラ・カーン朝の領土となったため、カシュガルを中心にホータンやクチャもイスラム圏となる。これら2国によって西域はトルコ語化が進み、古代から印欧系の言語(北東イラン語派のトカラ語)であったオアシス住民も11世紀後半にはトルコ語化した。

モンゴル帝国の拡大[]

古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。これはゴビの南(漠南)を支配した遼(契丹)や金(女真)といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。当時、モンゴル高原にはカンクリ・ケレイト・ナイマン・メルキト・モンゴル=ボルジギン[21]・タタル・オングート・オンギラト(オルクヌウト)といったトルコ・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にボルジギン部出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カーン(在位: 1206年 - 1227年)として大モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した。

チンギス・カーンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北のバルグト・オイラート・キルギス、西のチベット系タングート(党項/唐兀[22])の西夏・天山ウイグル王国・カルルク・モンゴル系とツングース系の混合民族である契丹のカラキタイ(西遼)・ホラズム王国のシャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。チンギス・カーンの後を継いだオゴタイ・カーン(在位: 1229年 - 1241年)も南のツングース系の女真完顔部の金を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク・ヴォルガブルガール・ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。こうしてユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大帝国となったモンゴルであったが、第4代モンケ・カーン(在位: 1251年 - 1259年)の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分裂してしまった。

モンゴル帝国の支配下[]

この史上最大の帝国に吸収されたトルコ系諸民族であったが、支配層のモンゴル人に比べてその人口が圧倒的多数であったため、また文化的にトルコ語が普及していたため、トルコ系のモンゴル語化はあまり起きなかった。むしろイスラム圏に領地を持ったチャガタイ・ウルス(チャガタイ・カーン国[23])、フレグ・ウルス(イル・カーン国)、ジョチ・ウルス(キプチャク・カーン国)ではイスラムに改宗するとともにトルコ語を話し同化するモンゴル人が現れた。こうしてモンゴル諸王朝のトルコ・イスラム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はトルコ系の国家が次々と建設されることになった。

チャガタイ・カーン国のトルコ系[]

チンギス政権以来、天山ウイグル王国はモンゴル帝国の庇護を受け、14世紀後半にいたるまでその王権が保たれた。それはウイグル人が高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍したことや、モンゴルにウイグル文字を伝えてモンゴル文字の基礎になったこと、オアシス定住民の統治に長けていたことが挙げられる。モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権はトルファン地域を放棄したが、その精神を受け継いだウイグル定住民たちは現在もウイグル人として生き続けている。

一方、カラ・カーン朝以来、イスラム圏となっていたタリム盆地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ・カーン国)が形成され、天山ウイグル領で仏教圏であった東部もその版図となり、イスラム圏となる。やがてチャガタイ・カーン国はパミールを境に東西に分裂するが、この要因の一つにモンゴル人のトルコ化が挙げられる。マーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)を中心とする西側のモンゴル人はイスラムを受容してトルコ系語を話し、トルコ系と混血してオアシス定住民の生活に溶け込んでいった。彼ら自身は「チャガタイ人」と称し、東側のモンゴル人を「ジェテ(盗賊)」と呼んだ。その一方、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「ムガール」「モグール」と称した。そのためしばらく東トルキスタンはチャガタイ・カーン国の系統である東チャガタイ・カーン国こと「ムガーリスタン・カーン国」「モグーリスタン・カーン国」と呼ばれることになった。それに対して、西トルキスタンは西チャガタイ・カーン国と呼ばれたのである。

ツィームール朝[]

西チャガタイ・カーン国から台頭したトルコ化したモンゴル部のボルジギン氏(モンゴル帝国の直系)の一派であるバルラス部のツィームール[24]は西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグーリスタン・カーン国(ムガーリスタン・カーン国)とジョチ・ウルスをその影響下に入れて、大帝国を築き上げた。彼自身がトルコ化したモンゴル系ムスリムであったため、また西トルキスタンにトルコ人が多かったため、ツィームール朝の武官たちはトルコ系で占められていた。しかし、文官にいたっては知識人であるイラン系のタズィク人(タジク人)が担っていた。こうしたことでツィームール朝の公用語はイラン系言語であるペルシア語と、トルコ系言語であるチャガタイ語が使われ、都市部においては二言語併用が一般化した。この系統はインド・アーリア人との混血を重ねて、帝室が滅亡するころには、ほぼインド化されていたという。

キプチャク・カーン国のトルコ系[]

キプチャク草原を根拠地としたキプチャク・カーン国のジョチ・ウルスは比較的早い段階でイスラムを受容し、多くのトルコ系民族を抱えていたためにトルコ化も進展した。15世紀になると、カザン・カーン国、アストラハン・カーン国、クリミア・カーン国、シャイバーニー朝、カザフ・カーン国、シビル・カーン国といったトルコ系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。

ウズベクとカザフ[]

現在、中央アジアのトルコ系民族で上位を占めるのがウズベク人とカザフ人である。これらの祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家のアブル=ハイル・カーン(在位:1426年 - 1468年)に率いられた集団であった。彼らはウズベクと呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、シル川中流域に根拠地を遷したが、ジャーニー・ベク・カーンとケレイ・カーンがアブル=ハイル・カーンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離することとなり、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくはカザフと呼んで区別するようになった。

アブル=ハイル・カーンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・カーン国を形成した。やがてウズベクの集団もムハンマド・シャイバーニー・カーンのもとで再統合し、マーワラーアンナフル・フェルガナ・ホラズム・ホラーサーンといった各地域を占領してシャイバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた。

3カーン国[]

1599年にシャイバーニー朝が滅亡した後、マーワラーアンナフルの政権はジャーン朝(アストラ・カーン朝)に移行した。ジャーン朝は1756年にマンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせてブハラ・カーン国と呼ぶ(ただしマンギト朝はカーン位に就かず、アミールを称したのでブハラ・アミール国とも呼ばれる)。

また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したため、次のイナク朝(1804年 - 1920年)とともにヒヴァ・カーン国と呼ばれる。そして、18世紀にウズベク系のミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・カーン国と呼ばれる。これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を3カーン国と称された。

ロシア帝国のアジア征服[]

13世紀に始まるモンゴル人のルーシ征服はロシア側から「タタールのくびき (татарское иго)」と呼ばれ、スラヴ系のロシア人にとっては屈辱的な時代であった。しかし、モスクワ大公のイヴァン4世(在位: 1533年 - 1584年)によってカザン・カーン国、アストラハン・カーン国といったジョチ・ウルス系の国家が滅ぼされると、「タタールのくびき」は解かれ、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。このときロシアに降ったトルコ系ムスリムはロシア側から「タタール人」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と同化政策に苦しめられ、カザフ草原やトルキスタンに移住する者が現れた。

16世紀末になってロシア・ツァーリ国はシベリアのシビル・カーン国を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。同じ頃、カザフ草原のカザフ・カーン国は大ジュズ・中ジュズ・小ジュズと呼ばれる3つの部族連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系遊牧集団ジュンガルの脅威にさらされていた。1730年、その脅威を脱するべく小ジュズのアブル=ハイル・カーン(在位: 1716年 - 1748年)がロシア帝国に服属を表明して、中ジュズ・大ジュズもこれにならって服属を表明した。

19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国(イギリス)とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されていた。ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年にコーカンド・カーン国を滅ぼし、1868年にブハラ・カーン国を、1873年にヒヴァ・カーン国を保護下に置き、1881年に遊牧集団トゥルクメン人を虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。

アナトリア半島のトルコ人[]

現在、最も有名なトルコ系国家であるトルコ共和国はアナトリア半島に存在するが、トルコ人の故地であるアルタイ山脈から最も離れた位置にあるにもかかわらず、トルコ系最大の民族であるトルコ人[25]が住んでいる。これは歴史上、幾波にもわたってトルコ人がこの地に侵入し、移住してきたためである。それまでのアナトリア半島には東ローマ帝国が存在し、主要言語はギリシア語およびラテン語であった。

アナトリアへ最初に侵入してきたのはセルジューク朝であり、セルジューク朝によって東ローマ帝国が駆逐されると、その地にセルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなどが流入してきたため、アナトリアのテュルク化が始まった。その後はセルジューク朝の後継国家であるルーム・セルジューク朝がアナトリアに成立し、モンゴルの襲来で多くのトゥルクマーンが中央アジアから逃れてきたので、アナトリアのトルコ化・イスラム化は一層進んだ。14世紀にはオスマン帝国がアナトリアを中心に拡大し、最盛期には古代ローマ帝国を思わせるほどの大帝国へと発展したが、18世紀以降、オスマン帝国は衰退の一途をたどり、広大な領地は次第に縮小してアナトリア半島のみとなり、第一次世界大戦後、ムスタファ・ケマル・アタテュルク指導下による『トルコ革命』によって1922年に滅亡し、翌1923年にトルコ共和国が成立した。

トルコ系民族の独立[]

ロシア領内のトルコ系の間では、19世紀末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてトルコ系の幅広い連帯を目指す汎トルコ主義(汎トルコ主義)が生まれた。しかし、ロシア革命が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むトルコ系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、トルコ革命が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎トルコ主義は否定される形となった。

1991年のソビエト連邦崩壊後、旧ソ連から5つのトルコ系民族の共和国が独立した。これら諸共和国やタタール人などのロシア領内のトルコ系諸民族と、トルコ共和国のトルコ人たちとの間で、汎トルコ主義の再台頭ともみなしうる新たな協力関係が構築されつつあった。

歴代のトルコ系民族および国家[]

  • 匈奴
    • 北匈奴 : フン族の前身とされる。
    • 南匈奴 : 中国北部に定着して、次第に漢民族と同化した。
    • 羯(匈奴羌渠部) : 石胄(石冑)を祖とする。
    • フン族 : 北匈奴の後身とされ、トルコ的要素を持つことをうかがわせる点が多いとはいえ、歴史学上は民族的系統が必ずしも十分明らかになっているとはいえない。しかし、現在のトルコ共和国ではトルコ民族の遊牧国家と見なされている。
  • 丁零(丁霊)
  • 烏孫
  • 高車
  • 悦般
  • 突厥
    • 東突厥
    • 西突厥
    • 突厥沙陀部
  • 鉄勒
  • 回鶻(ウイグル)
    • 天山ウイグル王国
    • 甘州ウイグル王国
  • 堅昆(契骨/黠戛斯/キルギス)
  • アヴァール : モンゴル系とみられる柔然(蠕々)の後身とされるが、トルコ民族的要素が濃厚な遊牧民族である。
  • オグズ
  • カルルク
  • ブルガール帝国
    • 第一次ブルガール帝国
      • 西ブルガリア帝国
    • 第二次ブルガール帝国
  • ハザール
  • キプチャク(ポロヴェツ/クマン)
  • ペチェネグ

イスラム化後のトルコ系国家[]

  • カラ・カーン朝
  • ガズナ朝
  • セルジューク朝
    • ルーム・セルジューク朝
  • ホラズム・シャー朝
  • マムルーク朝
  • オスマン帝国
  • 奴隷王朝
  • ハルジー朝
  • トゥグルク朝
  • サイード朝

モンゴル帝国の解体後に生まれた主なトルコ=モンゴル系国家[]

チャガタイ・ウルス系(チャガタイ・カーン国)[]

  • モグーリスタン・カーン国(ムガーリスタン・カーン国/東チャガタイ・カーン国)
  • 西チャガタイ・カーン国
  • ツィムール朝
  • ムガール帝国

ジョチ・ウルス系(キプチャク・カーン国)[]

  • スーフィー朝
  • ブハラ・カーン国
    • シャイバーニー朝
  • ジャーン朝(アストラ・カーン朝)
  • マンギト朝
  • ヒヴァ・カーン国
    • ウルゲンチのシャイバーニー朝
    • イナク朝
  • コーカンド・カーン国
  • シビル・カーン国
  • カザン・カーン国
  • カザフ・カーン国
  • アストラハン・カーン国
  • ノガイ・オルダー朝
  • クリミア・カーン国

フレグ・ウルス(イル・カーン朝)系[]

  • ジャライル朝
  • 黒羊朝(カラコユンル)
  • 白羊朝(アクコユンル)

現代のトルコ系諸民族[]

主権国家[]

  • トルコ共和国トルコ人(5,549万人〜5,800万人/7,000万人)
  • アゼルバイジャン共和国 → アゼルバイジャン人(720.5万人/2,050万人〜3,300万人、イランに1,200万人〜2,010万人)
  • ウズベキスタン共和国 → ウズベク人(2,230万人/2,830万人)
  • トゥルクメニスタン → トゥルクメン人(550万人/800万人)
  • キルギス共和国キルギス人(380.4万人/485.5万人)
  • カザフスタン共和国(カザフ・エリ) → カザフ人(955万人/1,600万人)

連邦構成国・民族自治区[]

  • ロシア連邦
    • タタールスタン共和国 → タタール人(555.4万人/671.2万人)
    • バシコールトスタン共和国 → バシキール人[26](167.3万人/205.9万人)
    • チュヴァシ共和国 → チュヴァシ人(163.7万人/180万人)
    • ハカス共和国 → ハカス人(8万人)
    • アルタイ共和国 → アルタイ人(6.7万人/7万人)
    • ツーヴァ共和国 → ツーヴァ人[27](24.3万人/28万人)
    • サハ共和国 → ヤクート人[28](44.4万人)
  • ウズベキスタン共和国
    • カラカルパクスタン共和国 → カラカルパク人(55万人)
  • 中華人民共和国
    • 新疆ウイグル自治区 → ウイグル人(840万人/1,125.7万人)

その他の主なトルコ系民族とその居住地[]

  • ウクライナ共和国の構成国クリミア自治共和国では、クリミア・タタール人が人口の2割を占める。
  • ベラルーシリトアニアポーランドには、リプカ・タタール人が居住している。14世紀末にヴィタウタス公により、他のトルコ系勢力(キプチャク・ジョチ・ウルスなど)に対抗すべく、招聘された者の末裔である。
  • リトアニアの西部トラカイ市には、ユダヤ教徒のカライム人のコミュニティがある。リプカ・タタール人と始祖を同じくすると主張している。ユダヤ教トルコ勢力のハザールとの関係は不明。
  • モルドヴァには、トルコ系キリスト教徒のガガウズ人が居住している。
  • キプロスの北部では、トルコ人の住民が北キプロス・トルコ共和国を立てて独立を宣言している。
  • アフガニスタンには、ウズベク人など多くのトルコ系民族が住む。
  • イランには、北西部にアゼルバイジャンと連続する同族のアゼリー人がまとまって居住し、北東部カスピ海東南岸および南部内陸にトルクメン人が散在し、併せて人口のおよそ3割がトルコ系である。
  • モンゴル共和国には、バヤンウルギー県を中心として西部にまとまった数のカザフ人が居住する。また、北部には少数のトゥバ人が居住する。

脚注[]

  1. アジア人種・黄色人種とも呼ばれる。
  2. ヨーロッパ人種・白色人種とも呼ばれる。
  3. もともと東スラヴ系の民族で、西進した少数のトルコ系と混血して、トルコ化した東欧諸国のヴォルガ・タタール人とクリミア・タタール人とリプカ・タタール人とバルカン・タタール人などがそれに該当される。
  4. アルタイ系民族の中でも、オホーツク諸族(古アジア諸族=旧シベリア諸族)などの古代アジア人と混血が古くからあるという。
  5. 匈奴羌渠部に属する氏族。
  6. 『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』(森安孝夫/講談社/2007年)頁30
  7. 鮮卑の原音はツングース語の祥瑞・吉兆を表わす語の「Sabi」であろうとの説があったが、近年はトルコ・モンゴル語の帯鉤をさす語の「Sarbe」とする説が有力である。中国の史書に記録されている若干の鮮卑語に対して、かつて一部の学者はこれをモンゴル系とツングース系の混種であろうと主張した。しかし、近年は鮮卑語には多少のモンゴル語的要素の混合は認められるも、本質的にはトルコ語であり、従って鮮卑はトルコ系であったとする学説が有力である(陳舜臣もこれを支持している)。
  8. 同時に内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(同朋舎出版、1975年刊行)の3~4頁が引用するフランスポール・ペリオは1925年秋にロシアのレニングラード(サンクトペテルブルク)における講演において、4~5世紀に華北を支配した鮮卑拓跋部の語彙を基礎として、鮮卑はトルコ諸語に属する民族であったと発表したと、それを引用したドイツ系ロシア人のワシーリィ・ウラディミロヴィチ・バルトリド(ヴォルフガング・ヴィルヘルム・バルトルト)(Vasily Vladimirovich Bartold)は紹介した(Wolfgang.Wilhelm.Barthold:Der heutige Stand und die nächsten Aufgaben der geschichtlichen Erforschung der Türkvölker〔Zeitschrift der deutschen Morgenländischen Gesellschaft,Neue Folge Band 8 - Heft 2.S.124〕)。ついでに引き続き引用されたぺリオ自身は鮮卑語をモンゴル諸語とみる意味のことをToung-pao XX.S.328注3、XXVII.S.195.注1で発表した。ペリオを引用したバルトルトは鮮卑の言語はトルコ諸語であると論じ、鮮卑は疑いもなくトルコ諸族であったと結論を示した(Zwölf Vorlesungen über die Geschichte der Türken Mittelasiens〔Orta Asya Türk Tarikhi,Istanbul 1927.Die Welt des Islams Bd.XIV 1932.〕)。さらに、アメリカのP.ブッドバーグは鮮卑拓跋部をはじめとする諸族の語彙が実質的にトルコ諸語に属する民族である考証を示した(P.Boodberg,The Language of the Tó-pa Wei.Harvard Journal of Asiatic Studies I-2 1936)。
  9. 鮮卑は匈奴同様に多種族の部族連合のために、モンゴロイドを主体として、コーカソイドのグループも存在したという。
  10. 紀元前37年に、扶余を主体にツングース系を骨子として、トルコ系と混血した穢(獩)貊(濊狛)・沃沮などの種族で構成された高句麗を建国した。
  11. 大和民族は古代トルコ人と古代チベット人を骨子として、その他にツングース系・江南系弥生人(荊楚人・呉人・越人)・アイヌ民族(アイノイド)などとの度重なる混血で形成されている。
  12. 太公望(呂尚)の後裔である姜姓の一派、あるいは前秦の苻(蒲)氏と後秦の姚氏などの残党を含む。
  13. 晋自体も周王室と姻戚関係となって、姫姓を賜った翟族の狐氏出身の説がある(正確には嬛姓とする説もある)。
  14. 漢風の姓は釐姓
  15. 白狄鮮虞部の中には、大和民族(日本人/和人)の先祖の一派となったグループも存在した。特に鉄鍛冶を統轄した物部氏は白狄鮮虞部の末裔という。
  16. 魏書』列伝第九十一「唯車輪高大,輻數至多」、『北史』列伝第八十六「唯車輪高大,輻數至多」による。
  17. 中華民国の学者である姚薇元の『北朝胡姓考』(中華書局/2007年)によると、唐はトルコ系高車を出自に持つ代郡李氏とする見解を示している。
  18. テオフィラクト・シモカッタ (Theophylact Simocatta) 『歴史』
  19. 『突厥碑文』
  20. ロシア南西部のヴォルガ川付近に定住したトルコ系オグール族(Oghur)の一派のオノグール族(Onogur)を転訛したものを起源とする。
  21. キャト・ジュルキン・チャンシウト・サヤール・タイチュウトなどの支族に分かれた。
  22. 『モンゴル帝国史1』(ドーソン(翻訳:佐口透)/平凡社/1989年)頁309~311ではタングートはモンゴル化したトルコ系民族との見解を示している(ただし、頁311では「タングートは実はチベット系である」と記述されている。しかし、『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(宮脇淳子/刀水書房/2002年)頁137には、「タングートは実はチベット系である」という記述は存在しているとは書いていない、とこれを否定している)。
  23. チャプタイ・カーン国とも呼ばれる。
  24. ティムールとも呼ばれる。
  25. 史家によっては、人種は基本的にコーカソイドであり「トルコ化」した古代ギリシア人(キプロス人)と古代ラテン人の末裔とする見方もある。
  26. マジャール人と親近関係にある。
  27. 現在はほぼモンゴル化した。
  28. トルコ化したウラル語族の南サモエード系の後裔という。

参考文献[]

  • 『春秋左氏伝』
  • 『史記』
  • 『漢書』
  • 『後漢書』
  • 『資治通鑑』
  • 『魏書』
  • 『周書』
  • 『隋書』
  • 『旧唐書』
  • 『新唐書』
  • 『世界各国史4 中央ユーラシア史』(小松久男著/山川出版社/2005年刊行) ISBN 463441340X

関連項目[]

関連リンク[]

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