張 任(ちょう じん、? - 214年(建安19年))は、後漢末期の部将。張裔の父[1]、張毣・張郁の祖父[1]。
生涯[]
蜀郡成都県[2][1]の人。寒門出身であったが、劉焉・劉璋父子に仕えて、文武に優れた能力を認められて州の従事となった。
劉備が益州の蜀地方を攻略すると、同僚の冷苞と鄧賢(孟達の義理の甥)とともにこれを迎え撃ったが、涪城で撃破されて、雒城に撤退した。雒城で劉循(劉璋の長子)を補佐して籠城して劉備の軍師である龐統を流れ矢で敗死させるなど抵抗を示したが、食糧難などに追い込まれたために、撃って出て金雁橋で再びに敗れて、捕虜となってしまった。
劉備は彼の忠勇を高く評価し、何度も臣従を勧めた。しかし、張任は頑として「老臣は決して二君に仕えるつもりはない」と叫んで、決して降ろうとしなかった。そのため劉備に惜しまれながらも、そのまま処刑された。
劉備は敵ながら最後まで勇敢に戦って、節義を曲げなかった張任に感服して、その首級と胴体を棺に収めて金雁橋の傍に忠魂碑として埋葬した。張任の死を惜しんだ劉備は、帰順したその子の張裔[3]を要職につけて、これを重用した[1]。
張任の墓は、現在の四川省広漢市北外郷に現存して、県級文物保護単位の扱いを受けている。しかし、1964年の発掘調査の結果では、晋代の296年(元康6年)の年号が書かれた磚が出土しており、これは張任の墓ではなく、晋代の別人の墓である可能性が濃厚であるという。
後世の人々は、張任のことを下記のように称えている。
- “烈士、豈(あ)に甘んじて二主に従わんや。張君(張任)が忠勇、死すともなお生けるがごとし。高く明らかなること正に天辺の月のごとく、夜々、光を流して雒城を照らす。”
…と絶賛されている。
脚注[]
関連項目[]
- 張裔