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Otto IV

ヴェルフェン=エステ家の唯一の神聖ローマ皇帝・オットー4世の雄姿

オットー4世独語:Otto IV、1174年/1175年 - 1218年5月19日)は、ヴェルフェン=エステ家で、神聖ローマ皇帝(在位:1198年 - 1215年)・シュヴァーベン公のオットー3世(在位:1208年 - 1212年)。

ハインリヒ獅子公の四男(末子)で嫡男、生母はプランタジネット朝のノルマン・イングランド王のヘンレィ2世の娘・マツィルダ。ハインリヒ4世(夭折)の異母弟、ライン宮中伯・ハインリヒ5世コンラート2世(夭折)の同母弟、リューネブルク公・ヴィルヘルム1世の外従兄にあたる。

概要[]

Emporer Otto IV Arms

オットー4世が使用していた紋章

オットー4世はザクセン公のハインリヒ獅子公とその妻のマツィルダの3人目(マツィルダの三男)の息子として生まれるが、史料からオットー4世の出生地を確認することはできない。

1182年7月末にホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝・フリートリヒ1世赤髭王(ババロッサ)が母方の従弟にあたるハインリヒ獅子公に対してドイツ国外追放を宣告したため、その子のオットー4世は同母兄のハインリヒ5世とともに父に伴われ、イングランドに旅立った。母方の祖父であるノルマン・イングランド王のヘンレィ2世が統治するイングランドで幼少期を過ごした。オットー4兄弟を養育していた叔父のノルマン・イングランド王のレィチャード1世獅子王(獅子心王)は、甥のオットー4世とアサル家(ダンケルド家)のスコットランド王のウェィリュム1世の王女のマーガレットとの結婚を取り決めた。1194年2月、神聖ローマ皇帝・ハインリヒ6世(フリートリヒ1世赤髭王の次子、オットー4世の又従兄)に捕らえられたレィチャード1世は、釈放の条件として身代金などを支払い、その際にオットー4世と彼の外従弟ヴィルヘルム1世は人質として、ハインリヒ6世の元に預けられた。同年末にオットー4世たちは解放され、イングランドに帰還する。1196年にオットーはフランスのポワトゥー伯に叙任され、叔父のレィチャード獅子王が実施した対フランス戦争にオットーも従軍した。

1197年、ホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝・ハインリヒ6世が33歳で死去すると、その子のフリートリヒ2世がまだ4歳だったために即位できず、神聖ローマ帝国の皇位を巡る争いが発生した。ホーエンシュタウフェン家に反感を持つドイツ諸侯は、最初はオットー4世の同母兄であるハインリヒ5世をドイツ王に擁立しようと目論んだが、ハインリヒ5世は十字軍に参加してエルサレムに遠征して、ドイツに不在であったため、かわってイングランドのポワトゥー伯であったオットー4世をドイツ王として、擁立してドイツに帰国させた。

反ホーエンシュタウフェン家の盟主であるケルン大司教のアドルフは、ライン地方の諸侯に働きかけてオットー4世を擁立し、1198年6月9日にヴェルフェン家の支持者によってドイツ王に擁立された。同年7月12日、ドイツに帰国したオットー4世はアーヘンでケルン大司教のアドルフより戴冠された。聖職者のうちケルン大司教のみがドイツ王冠を戴冠できる権限を有しており、戴冠式はオットーの即位の正当性を証明する象徴として重要な意味を持っていた。しかし、帝権を示す標章はホーエンシュタウフェン家が所有していたため、戴冠式では模造品の標章で代用された。

オットー4世は養育者である母方の叔父であるノルマン・イングランド王のレィチャード獅子王の後ろ盾を得て、ハインリヒ6世の弟で、オットー4世の岳父でもあったドイツ王・シュヴァーベン公のフィーリプ(東ローマ皇帝・イサキオス2世の娘婿)はカペー朝のフランス王のフィリップ2世尊厳王と同盟していたため、オットーの即位はイングランドとフランスとの国際的な衝突を引き起こした。

オットー4世は、岳父であるドイツ王・シュヴァーベン公のフィーリプに宣戦布告をした。しかし、フィーリプはオットー4世の支持者との戦闘で勝利を重ねて、1204年にはケルン大司教からドイツ王冠を戴冠された。同年にイングランドがフランスとの戦闘に敗れたため、母方のイングランド王国からの資金援助を絶たれたオットー4世は苦境に陥り、同母兄のハインリヒ5世を含めた多くのドイツ諸侯がフィーリプに味方した。1206年7月27日にオットー4世はヴァッセンベルク近郊での戦い(『ヴァッセンベルクの戦い』)で、フィリープの軍勢に大敗して自らも負傷し、教皇庁も内戦で優位に立つフィーリプの支持に回った。こうして、フィーリプは事実上のドイツ王となり、オットー4世はブラウンシュヴァイヒ近郊の居城に退去を余儀なくされた。

後にフィーリプ暗殺の黒幕といわれたローマ教皇のインノケンティウス3世の仲介で、オットー4世とフィリップはケルンで交渉を行ない、フィーリプはオットー4世にドイツ王位請求権の放棄と引き換えに、フィーリプの娘のベアトリクスとの結婚・シュヴァーベン公位・莫大な補償金の支払いを提示した。しかし、オットー4世はフィーリプの提案を拒否して、再び内戦が勃発しようとしていたが、1208年6月8日にフィーリプが政敵のヴィッテルスバハ家のバイエルン宮中伯・オットー8世に暗殺されたため、翌1209年、ローマ教皇・インノケンティウス3世の仲介で、フィーリプの娘のベアトリクスと結婚した。

オットー4世は、フィーリプの遺領であるシュヴァーベン公領のシュヴァーベン人(東アレマン人)はバイエルン・ザクセン地方出身のオットー4世を「よそ者」扱いして、君主と認めずに排他的な態度で示した。フィーリプの暗殺後にインノケンティウス3世はドイツ諸侯にオットー4世の支持を呼びかけ、長く続いた内戦に疲弊したドイツ諸侯たちはオットー4世の即位に同意した。1208年11月11日にフランクフルトで行なわれた皇帝選挙において、オットー4世は帝位の世襲を行なわないことを宣言し、選帝侯全員からの支持を得た。

インノケンティウス3世とも和解を果たしたオットー4世は、神聖ローマ皇帝への即位の準備に取り掛かった。1208年にオットー4世はヴェローナ・モデナ・ボローニャを経由してミラノに到着し、同地でロンバルディアの鉄王冠を戴冠され、「イタリア王」の称号を帯びた。1209年3月にオットーはシュパイアーで以下の事項を記した特許状を発布し、インノケンティウス3世に対して教皇の権威に服することを誓約した。

  1. マツィルデ・ディ・カノッサの遺領を含む教皇領の回復
  2. シチリア政策における教皇の意向の尊重
  3. レガーリエンレヒト(司教の空位期間中、司教が置かれていない空の司教区から上がる収入を王が徴収する権利)の放棄
  4. シュポーリエンレヒト(死去した司教が有していた動産に対する王の権利)の放棄
  5. 教会法(カノン法)に基づく司教の選出

オットー4世はヴィテルボでインノケンティウス3世と面会し、1209年10月21日にオットーはサン・ピエトロ大聖堂で神聖ローマ皇帝に戴冠されたが、戴冠式を前にしてローマではイタリア人ドイツ人であるオットー4世を追放する暴動が起きていた。

こうして、神聖ローマ皇帝となったオットー4世は、即位後に大規模な南イタリアのシチリア・ナポリ両王国の遠征を実施し、侵入したため、オットー4世に対して度重ねた制約を破った恩知らずと激怒したインノケンティウス3世と対立して破門され、さらに同母兄のライン宮中伯・ハインリヒ5世を含むドイツ諸侯の支持を失ってしまったのである。

悪いことに成人したフリートリヒ2世を推すフランス王・フィリップ2世と対立した。そのため、母方の叔父で、レィチャード獅子王の弟であるノルマン・イングランド王のジャン欠地王(失地王)に援軍を要請して共に戦うが、1214年7月27日にフランスベルギー国境の『ブーヴィーヌの戦い』で、フリートリヒ2世とフランス軍の連合軍に大敗した。

『ブーヴィーヌの戦い』大敗したオットー4世は、従子のリューネブルク公でヴェルフェン=エステ=ビュッテル家のオットー1世幼童公(外従弟・ヴィルヘルム1世の子)の本拠地であるブラウンシュヴァイヒへ元へ身を寄せ、ドイツ諸侯に完全に見限られたオットー4世は翌1215年に、神聖ローマ皇帝を廃位され、岳父・フィーリプから受け継いだシュヴァーベン公の地位も召し上げられた。

その後、皇帝となったフリートリヒ2世はアーヘンとケルンを獲得した。それ以降、オットー4世は病没するまでブラウンシュヴァイヒの居城から出ることはほとんどなかった。1218年に北ドイツのハルツ城でオットー4世は病没した。享年45。オットー4世は死の直前までに新たにローマ教皇となったホノリウス3世に対して破門の解除を懇願した。オットー4世の遺体はブラウンシュヴァイヒ大聖堂に埋葬された。

オットー4世の子のコンラート3世が父に先立って夭折していたので、従子のオットー1世幼童公が「ヴェルフェン家」の後継者として、従父の遺領を継いで古ブラウンシュヴァイヒ=リューネブルク家の家祖となった。

人物像[]

Braunschweiger Dom Grabplatte OttoIV

ブラウンシュヴァイヒ大聖堂のオットー4世の墓標

オットー4世は生来から頑強な長身の体躯を持つ、強情かつ傲慢な性格の人物と伝えられている。ウルスベルクの年代記においては、「傲慢で愚かだが、勇敢さを持った」人物と述べられている。ミンネゼンガー(吟遊詩人)のヴァルター・フォン・フォーゲルヴァイデは、「彼が自分の背丈ほどの寛大さを持っていれば、より多くの美徳が備わっていたであろうに…」と嘆息して揶揄した。また、オットー4世は豪華なものを好まず吝嗇(ケチ)とも言えるほどの倹約家だと伝えられている。

家族[]

  • ベアトリクス(ドイツ王・フィーリプの娘で14歳):1212年に結婚したが、わずか19日後に間もなくベアトリクスは死去した。二人との間に子はなかった。
  • マリア(ブラバント公・ハインリヒ1世の娘、マツィルダの姉):1214年4月19日に再婚し、子を儲ける。しかし夫・オットー4世と子・コンラート3世が死去したため、まもなく彼女はホラント伯・ウィレム1世(ホーラント伯・ヴィルヘルム1世)と再婚した。
    • コンラート3世(1215年? - 1217年?):わずか3歳で夭折したため、ヴェルフェン=エステ家の男系は断絶した。

参考文献[]

  • 西川洋一「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二・成瀬治・山田欣吾の世界歴史大系/ 山川出版社/1997年)
  • 『ブーヴィーヌの戦い』(ジョルジュ・デュビー(松村剛訳)/平凡社/1992年)
  • 『ザクセン大公ハインリヒ獅子公』(カール・ヨルダン(瀬原義生訳)のMinerva西洋史ライブラリー/ミネルヴァ書房/2004年)
  • 『皇帝フリードリヒ二世』(エルンスト・カントローヴィチ(小林公訳)/中央公論新社/2011年)
  • Abulafia, David, The New Cambridge Medieval History, Vol. V: c. 1198-c. 1300, Cambridge University Press, 1999
  • Bryce, James, The Holy Roman Empire, 1913
  • Comyn, Robert. History of the Western Empire, from its Restoration by Charlemagne to the Accession of Charles V, Vol. I. 1851
  • Dunham, S. A., A History of the Germanic Empire, Vol. I, 1835

関連項目[]

先代:
フィーリプ
シュヴァーベン公
1208年 - 1212年
次代:
フリートリヒ2世
先代:
ハインリヒ6世
神聖ローマ皇帝
1209年 - 1215年
次代:
フリートリヒ2世
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