
三国志演義(さんごくしえんぎ)とは、中国の元末から明初の羅貫中(羅本)あるいは『水滸伝』の著者の施耐庵[1]が編集した著作といわれるが定かではない。
概要[]
明らかに陳寿の『三国志』の注釈である裴松之が紹介した民話も含めた多くの各文献を参考にしたものである。また東晋の范曄の『後漢書』と南宋代の通俗講談書の『三国志平話』[2]の逸話の要素なども折り混ぜて、歴史の史実をベースとしながら、通俗講談書の要素が濃い作品として仕上げた。
『三国志演義』が陳寿の『三国志』よりも知名度が上がったのは、その『三国志』の内容が簡潔すぎて、ストーリ性が薄いことが挙げられる。また、『三国志演義』では『三国志』に触れられなかった、「隠された事項」のようなエピソードも含まれているのも、その特徴と言えるかも知れない。
しかし、基本的には劉備や諸葛亮が正義で、曹操が悪役となり、孫堅が影の薄い存在という設定である。だからこそ『通俗三国志演義』とも呼ばれたりする所以である[3]。
日本で『三国志』と呼ばれる作品は、大抵が『三国志演義』であることが多いが、陳寿の『三国志』および羅貫中の『三国志演義』とはまったく別物である[4]。
ただし、陳寿の『三国志』同様に、日本ではメジャーで人気が高いことをつけ加えておく。
脚注[]
- ↑ 羅貫中の師と伝わる。
- ↑ 宋(南宋)代に刊行された別称は『新刊全相平話三国志』。元代に刊行された『全相平話五種』に収録されている。
- ↑ 184年に「桃園の誓い」(「桃園結義」)を経て、黄巾党の乱で挙兵した劉備自身が28歳という設定になっている。しかし、実際の劉備は184年当時は23歳あるいは24歳。187年の挙兵説では、26歳あるいは27歳である(『典略』).
- ↑ 主な例は吉川英治・横山光輝の『三国志』など。もっとひどいのは江戸時代の元禄年間のパクリ作者の湖南文山(山城国天竜寺の僧侶の義轍・月堂兄弟のユニットネームといわれる)の『通俗三国志』である。同時にこの兄弟は他に「夢梅軒章峯」と「称好軒徽庵」というユニットネームを使用して、『通俗漢楚軍談』や『通俗両漢紀事』と『通俗唐太宗軍鑑』といった通俗小説も翻訳していたという。