
三国時代の勢力図
三国志(さんごくし)とは、中国の史書である。日本では絶大の人気を誇る。3世紀後半に蜀漢(蜀)の旧臣で晋(西晋)の官吏の陳寿が著したものである。
主に魏(曹魏)の曹操、呉(孫呉)の孫堅[1]、蜀(蜀漢/季漢)の劉備によって割拠された後漢末~西晋初の間の三国時代を記した歴史書である。
概要[]
著者の陳寿は蜀漢の部将の陳式の孫[2]で、父は馬謖の参軍だった陳某である。陳寿の父が街亭の戦いで諸葛亮に敗戦の責任で髪を断髪される刑[3]を受けたため、陳寿は怨んだという[4]が、彼は諸葛亮を称える『諸葛亮集』を書いているので、誤りである[5]。
簡潔に述べるが、蜀漢が魏の鍾会と鄧艾によって滅び、降伏した後主(懐帝)・劉禅一行は洛陽に連行された。師の譙周とともに陳寿も同伴した。やがて友人の羅憲の推挙で、陳寿は魏から簒奪した晋(西晋)の官吏となり、世祖武帝・司馬炎に仕え、勅命で『魏書』『呉書』『蜀書』などをまとめた史書の編集に取り掛かった。
しかし、魏と呉の史料は豊富だが、蜀漢の史料が極端にとぼしいため、陳寿は頭を抱えて苦慮した挙句に「どうせわたしの母国の蜀漢の史料が乏しいなら、魏と呉の史料も思い切り簡潔にしてしまうか?」と考えた。そのことを清の学者で儒学者でもある陳澧(ちんれい、字は蘭甫)が自著『東塾読書記』内の「論三国」にて「陳寿は蜀漢贔屓である。だから、彼は自国の史料の量が見劣りするので、その全体の量を削り、そのため『三国志』全体は簡潔すぎて面白味が足りない」と、陳寿のことを批評している[6]。
後世になると、宋漢(劉宋)の裴松之は太祖文帝・劉義隆の勅命で、記述が乏しい『魏書』『呉書』『蜀書』などをまとめた史書を『三国志』と称して、その内容を充実するために、多様性に富んでいる三国時代の伝承・地方史などの野史などの史料を注釈としてまとめている。同時に裴松之個人の辛口コメントの感想もおまけつきである。
列伝[]
魏書[]
- 武帝紀 : 武帝(太祖)
- 文帝紀 : 文帝(太宗/世祖/高祖)
- 明帝紀 : 明帝(烈宗)
- 三少帝紀 : 斉王芳(邵陵厲公)・高貴郷公髦・元帝(陳留恵王)
- 后妃伝 : (前孝武劉皇后)・(後孝武丁皇后)・武宣卞皇后・文昭甄皇后・文徳郭皇后・明悼毛皇后・明元郭皇后
- 董二袁劉伝 : 董卓・李傕・郭汜・張済・楊奉・袁紹・袁譚・袁尚・袁術・劉表
- 呂布臧洪伝 : 呂布・張邈・臧洪
- 二公孫陶四張伝 : 公孫瓚・陶謙・張楊・公孫度・公孫康・公孫恭・公孫淵・張燕・張繍・張魯
- 諸夏侯曹伝 : 夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪・曹休・曹真・曹爽・夏侯尚・夏侯玄
- 荀彧荀攸賈詡伝 : 荀彧・荀攸・賈詡
- 袁張涼国田王邴管伝 : 袁渙・張範・張承・涼茂・国淵・田疇・王修・邴原・管寧
- 崔毛徐何邢鮑司馬伝 : 崔琰・毛玠・徐奕・何夔・邢顒・鮑勛・司馬芝
- 鍾繇華歆王朗伝 : 鍾繇・華歆・王朗・王粛
- 程郭董劉蒋劉伝 : 程昱・郭嘉・董昭・劉曄・蒋済・劉放・孫資
- 劉司馬梁張温賈伝 : 劉馥・司馬朗・梁習・張既・温恢・賈逵
- 任蘇杜鄭倉伝 : 任峻・蘇則・杜畿・鄭渾・倉慈
- 張楽于張徐伝 : 張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃・朱霊
- 二李臧文呂許典二龐閻伝 : 李典・李通・臧覇・孫観・文聘・呂虔・許褚・典韋・龐悳・龐淯・閻温
- 任城陳蕭王伝 : 曹彰・曹植・曹熊
- 武文世王公伝 : 曹昻・曹鑠・曹沖・曹処(曹處)・曹宇・曹林・曹袞・曹玹・曹峻・曹矩・曹幹・曹上・曹彪・曹勤・曹乗・曹整・曹京・曹均・曹棘・曹徽・曹茂・曹協・曹蕤・曹鑑・曹霖・曹礼・曹邕・曹貢・曹儼
- 王衛二劉傅伝 : 王粲・衛覬・劉廙・劉劭・傅嘏
- 桓二陳徐衛盧伝 : 桓階・陳羣・陳矯・徐宣・衛臻・盧毓
- 和常楊杜趙裴伝 : 和洽・常林・楊俊・杜襲・趙儼・裴潜
- 韓崔高孫王伝 : 韓曁・崔林・高柔・孫礼・王観
- 辛毗楊阜高堂隆伝 : 辛毗・楊阜・高堂隆
- 満田牽郭伝 : 満寵・田豫(田予)・牽招・郭淮
- 徐胡二王伝 : 徐邈・胡質・王昶・王基
- 王毋丘諸葛鄧鍾伝 : 王淩・毋丘倹・諸葛誕・文欽・唐咨・鄧艾・鍾会
- 方技伝 : 華佗・杜夔・朱建平・周宣・管輅
- 烏丸鮮卑東夷伝 : 烏桓(烏丸)[7]・鮮卑[7]・扶余(夫余)[8]・高句麗[9]・沃沮(東沃沮)[10]・挹婁[11]・韓・倭[12]
呉書[]
- 孫破虜討逆伝 : 孫堅(烈祖/武帝)・孫策(高祖/桓帝/長沙桓王)
- 呉主伝 : 孫権(太祖/大帝)
- 三嗣主伝 : 孫亮(会稽哀王)・孫休(景帝)・孫皓(後主/帰命煬公)
- 劉繇太史慈士燮伝 : 劉繇・太史慈・士燮
- 妃嬪伝 : 呉夫人(武烈皇后)・喬夫人(孝桓皇后)・謝夫人・徐夫人・歩夫人(練師歩皇后[13])・王夫人(大懿王皇后)・王夫人(敬懷王皇后)・潘夫人(潘皇后)・全夫人(全皇后)・朱夫人(朱皇后)・何姫(昭献何皇后)・滕夫人(滕皇后)
- 宗室伝 : 孫静・孫賁・孫輔・孫翊・孫匡・孫韶・孫桓
- 張顧諸葛歩伝 : 張昭・張承・張休・顧雍・顧譚・諸葛瑾・歩騭
- 張厳程闞薛伝 : 張紘・張玄・厳畯・程秉・闞沢・薛綜
- 周瑜魯粛呂蒙伝 : 周瑜・魯粛・呂蒙
- 程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝 : 程普・黄蓋・韓当・蒋欽・周泰・陳武・董襲・甘寧・凌統・徐盛・潘璋・丁奉
- 朱治朱然呂範朱桓伝 : 朱治・朱然・朱績・呂範・呂拠・朱桓・朱異
- 虞陸張駱陸吾朱伝 : 虞翻・陸績・張温・駱統・陸瑁・吾粲・朱拠
- 陸遜伝 : 陸遜・陸抗
- 呉主五子伝 : 孫登・孫慮・孫和・孫覇・孫奮
- 賀全呂周鍾離伝 : 賀斉・全琮・呂岱・周魴・鍾離牧
- 潘濬陸凱伝 : 潘濬・陸凱
- 是儀胡綜伝 : 是儀・胡綜
- 呉範劉惇趙達伝 : 呉範・劉惇・趙達
- 諸葛滕二孫濮陽伝 : 諸葛恪・滕胤・孫峻・留賛・孫綝・濮陽興
- 王楼賀韋華伝 : 王蕃・楼玄・賀邵・韋昭(韋曜)・華覈
蜀書[]
- 劉二牧伝 : 劉焉・劉璋
- 先主伝 : 先主(烈祖穆(繆)帝)
- 後主伝 : 後主(懐帝、安楽郷(県)思公)
- 二主妃子伝 : (先主寇(鴻)皇后)・昭烈甘皇后(皇思夫人)・孝穆(繆)呉皇后・敬哀張皇后・張皇后(孝懐張皇后)・魯王永(永楽郷烈侯)・安平悼王理(武邑侯)・皇太子璿(梁王/王太子)
- 諸葛亮伝 : 諸葛亮
- 関張馬黄趙伝 : 関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲
- 龐統法正伝 : 龐統・法正(田正/陳正)
- 許麋孫簡伊秦伝 : 許靖・麋竺・孫乾・簡雍(耿雍)・伊籍・秦宓
- 董劉馬陳董呂伝 : 董和・劉巴・馬良・陳震・董允・呂乂
- 劉彭廖李劉魏楊伝 : 劉封(甘陵厲王/寇(鴻)太子/臨邑侯)・彭羕・廖立・李厳(李平)・劉琰・魏延・楊儀
- 霍王向張楊費伝 : 霍峻・王連・向朗・張裔・楊洪・費詩
- 杜周杜許孟来尹李譙郤伝 : 杜微・周羣・杜瓊・許慈・孟光・来敏・尹黙・李譔・譙周・郤正
- 黄李呂馬王張伝 : 黄権・李恢・呂凱・馬忠(狐篤)・王平(何平)・張嶷
- 蒋琬費禕姜維伝 : 蒋琬・費禕・姜維
- 鄧張宗楊伝 : 鄧芝・張翼・宗預・楊戯
三国志演義の作成[]
後世の元末~明初の羅貫中(羅本)と言う人が、南宋期の通俗講談書の『三国志平話』と上記の三国の伝承・地方史などの野史と『後漢書』も含め参照した、自己満足?ともいえるパロディの『三国志演義』を作成している。
脚注[]
- ↑ 実際は次男の孫権が建国した。
- ↑ 明代の『葉逢春本』
- ↑ 髠刑(こんけい)のこと。
- ↑ 『晋書』陳寿伝
- ↑ 詳しくは陳寿を参照。
- ↑ 高島俊男の『三国志_きらめく群像』より。
- ↑ 7.0 7.1 烏桓と鮮卑は東胡の後身で、トルコ系に属する遊牧民族(『鮮卑族はモンゴル系かトルコ系か』を参照のこと)。若干、ツングース系と混血を成している。
- ↑ 東胡の後身で、トルコ系を骨子とし、ツングース系と混血した半農半牧民族。
- ↑ 紀元前37年に扶余を主体にツングース系を骨子として、トルコ系と混血した濊(獩)貊(穢狛)・沃沮などの種族と構成された国。後に唐に滅ぼされると、ツングース系の靺鞨粟末部と併合して、渤海国を建国した。
- ↑ ツングース系を骨子として、トルコ系と混血した半農半牧の民族。
- ↑ ツングース系とオホーツク諸族(古アジア諸族=旧シベリア諸族)と混血した民族。粛慎(後世は女真/女直とも呼ばれる)・勿吉(隋唐の時代は靺鞨)はその一派にあたる。
- ↑ または、委とも呼ばれ、マライ=オーストロネシア(アウストロネシア)諸族(インドネシア・マレー人種)に属する海洋民族という。その一方、「耽羅鮮卑」(または「州胡」(『後漢書』列伝第八十五東夷伝)とも呼ばれ、五胡十六国時代の時流に乗じて朝鮮半島南西部の済州島(耽羅)に進出し拠点とした鮮卑慕容部の一派の末裔や、あるいは東進して鮮卑化したチベット系の羌氐の一首長の後裔という)とも呼ばれ、わが国の最初の大王(おおきみ → 単于・大人・可汗(カーン)と同義語)だった応神天皇・仁徳天皇父子が属した部族と言われる(今日の皇室の祖である継体天皇(オホド=ヲホド=オオド単于)は広大な蒙古東端部~朝鮮北部を割拠した扶余(夫余とも呼ばれ、古代トルコ人の白狄鮮虞部(漢風の姓は釐姓で、中山国を建国)・東胡の後身による遺民とツングース系を骨子としてトルコ系との混合民族である穢(獩)貊(濊狛)・沃沮と混血を重ねた遊牧民族)と混じった鮮卑拓跋部の支族である南涼を建国した禿髪部の王族である禿髪破羌(源賀)の末子の禿髪阿毎の系統とされ、彼らがモンゴル高原の東端部~満洲西端部を割拠し、禿髪阿毎の諱を採って、阿毎氏族と称し(『隋書』倭国伝)、漁猟する倭を奴隷にしたという。後に日本に渡ると、拓跋部の北魏(代魏)の中華姓の「元氏」にちなんで、『大化の改新』以降に「原氏」(はる - し)と改姓したという。皇族系の源氏は皇室の姓である「原」に「氵」を入れたことを由来し、日本の古墳時代の大和朝廷の原形となった要因は、鮮卑拓跋部の北魏の世祖太武帝(拓跋燾)が、日本の皇室の遠祖とされる前述の同族である禿髪破羌に対して「汝は、わが拓跋部と源を同じくする同族である。以降から源を姓とせよ」と述べて、「源賀」と改称した事項を基にしたものという(『馬の文化と船の文化』および『古代日本人とトルコ人 (前1200年-5世紀)』)。
- ↑ 『建康実録』による。