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世良田義季(得川義秀)

世良田義季像

世良田 義季・得川 義秀(せらだ よしすえ/とくがわ よしひで、? - 寛元4年12月15日(1247年1月23日)[1])は、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。通称は四郎[2]。幼名は来王丸、法名は栄勇入道義季流世良田世良田氏)の祖。

新田氏上野源氏)の祖・新田義重の4男、里見義俊新田義兼世良田義光[3]の弟、合土義澄額戸経義)・義佐義任)・義盛義益)の兄、得川頼有頼氏頼成[4]の父。生母は大和源氏一門の宇野頼弘親弘)の娘。

概要[]

生母が正室のために、同母兄の義兼とともに新田氏一門でも地位はかなり高かった。父・義重からは上野国新田荘世良田郷[5]を与られ、世良田郷の当主となり、世良田氏と称した。

また、同得川郷(現在の太田市徳川町)をも領有して、得川義秀とも称した[6]

異母兄の義俊とともに、同じく異母兄の義光の生母が遊女ということで、父・義重に疎まれて冷遇されて部屋住みの境遇を憐れんで、父に嘆願して自らの領地である得川郷の一部を兄・義光に与えさせたという。

治承4年(1180年)に、源家源姓鎌倉氏/相模源氏)の棟梁の鎌倉頼朝の挙兵に対して、父と同母兄の義兼ととも中立の立場をとったために、冷遇された。

承久3年(1221)年、栄西の弟子栄朝を住持に招い、て世良田長楽寺を開基・建立した。

義季が逝去すると、庶長子・頼有が得川郷を継承し、次嫡子・頼氏が世良田郷を継承した。

脚注[]

  1. 『系図綜覧』所収「新田松平家譜」
  2. 次郎(『長楽寺系図』)/三郎(『吾妻鏡』)の説もある。
  3. 義光流世良田氏の祖。
  4. 『徳川実紀』より。
  5. 現在の群馬県太田市世良田町
  6. 『吾妻鏡』および『群馬県百科事典』(群馬県教育委員会/上毛新聞社/1979年)より。

関連項目[]

先代:
-
義季流世良田氏初代当主
-
次代:
世良田頼氏