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世良田義政

世良田義政の肖像

世良田 義政(せらだ よしまさ、? - 貞治3年(1364年))は、南北朝時代から室町時代初期の武将。「義正」とも呼ばれる。

新田氏上野源氏)流義季流世良田氏世良田氏)一門の世良田義有有氏[1]の孫、義氏の子、義周(義同)[2]の兄、義生(よしなり)の父、生母は岩松政経[3]の妹[4]。族兄の得川頼氏尚氏)に嗣子がなく、族曾祖父の得川頼有(頼氏の曾祖父)の猶子となった[5]

概要[]

下野国南西部を拠点として、はじめは一族の世良田経広とともに惣領家の新田義貞に従うが、後に一族の得川氏の当主の得川家久宗氏の子)とともに同族の足利氏下野源氏)の惣領家の足利尊氏高氏)に従い北朝方として、弟の義周とともに功績を残して、伊予守を拝命した。

1364年(貞治3年)夏4月に上総国守護になり、鎌倉足利家(鎌倉公方)足利基氏(尊氏の末子)に仕えた。しかし、同年秋7月27日ごろに、義政が新田氏惣領家と称して南朝と通じる疑いを持たれて基氏の逆鱗に触れてしまい、翌28日に基氏から追討軍が差し向けられて、家臣の梶原景安[6]とともに鎌倉如来堂にて自害して果てた[4]。代わって、外従子の岩松直明(ただあき)[7]が上総国守護となった。

子の義生と甥の義時(義周の子)らは一時期に潜伏したが、後に赦されて、彼らの後裔は得川氏と称して、後に同族である足利氏一門で、室町幕府の四職である山名氏義範流)の因幡国伯耆国但馬国守護に任命されたことで家老として随行し、因幡得川氏(因幡森本氏)の祖となり、因幡国邑美郡[8]を拠点とした。

脚注[]

  1. 頼氏の3男。
  2. 義時の父。官職は左馬頭。惣領家の新田義興に従い、一時期は北朝方の尊氏に従うも、1358年に南朝方として武蔵国矢野口の多摩川付近で、一族の糸井義遠(大島周防守)とともに謀殺されたとも、自害したともいう。
  3. 畠山義純の曾孫、岩松時兼の孫、経兼の子、義政経家(本空入道)頼宥(頼円(頼圓)入道)・直国(ただくに、真義/法松入道)の父、泰家(満親とも、経家の子)・直明(直国の子)の祖父、満国・後閑満泰(後閑氏の祖、泰家の子)の曾祖父、満家(満泰の子)の高祖父。
  4. 4.0 4.1 推測として、義政が南朝方にいた同族と内通していた可能性が濃厚だったことが要因という(『鎌倉府体制と東国』「上総守護と世良田義政事件 - 『円覚寺蔵大般若経刊記』をめぐって - 」(小国浩寿/吉川弘文館/2001年、初版1995年)が引く『鎌倉大日記』より)。
  5. 『上野人物志 』「上巻」(岡部福蔵/上毛郷土史研究会/1923年-1924年)より)357頁より。
  6. 梶原景時の後裔。
  7. 上記の岩松直国の子。
  8. 現在の鳥取県岩美郡邑美大字

関連項目[]