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伊勢能森

伊勢能森

伊勢 能森[1](いせ よしもり、? - 文治2年7月25日(1186年8月11日))は、平安時代末期の武将。通称は江三郎

『平家物語』では伊勢国の鈴鹿山の山賊、『平治物語』では上野国の宿屋の息子としている。

生涯[]

『源平盛衰記』では伊勢国で確執関係にあった義理の伯父(伯母の婿)を殺害した容疑で投獄され、後に赦免されて源義経一行と出会い、その郎党となったとも、少年時代の義経が京都の鞍馬山を出奔して、陸奥国平泉へ向かう途中で、上野国でその家来となったともいわれるが、真偽の程は不詳である。

『愚管抄』では、『粟津の戦い』で、義経の従兄の木曾義仲を討ち取ったのは能森としている[2]

『吾妻鏡』によると、元暦2年/文治元年(1185年)3月24日の『壇ノ浦の戦い』で、平家の総大将の平宗盛・清宗父子を捕らえている。4月26日に平家の捕虜を京都に護送する際に、宗盛らが乗る牛車の前に有力御家人である土肥実平碓井貞光の後裔)に同伴している。

同年5月17日 義経が兄の源頼朝の怒りを買い、相模国鎌倉入りを許されず、その近郊にある腰越に抑留されたときに、能森は頼朝の妹婿の一条能保(藤原北家)の家来と些細な事から乱闘騒ぎを起こしている。その場は義経と能保が仲裁に入って収まったが、騒動を聞いた頼朝は「能森ごとき卑賤者が驕っておることは、まことにけしからん!」と激怒して、ますます義経の立場を悪くさせた。

同年11月3日に、義経と頼朝が兄弟対決して、義経が都を落ちる際にも同行した。九州へ向かう船が暴風雨により難破し義経一行が離散した後に、能森は単独で京付近に潜伏するが、郷里の伊勢国・伊賀国の守護の首藤(山内)経俊を襲撃するも敗れて鈴鹿山へ逃亡し、翌文治2年(1186年)7月25日に経俊の軍隊に発見されて、まもなく処刑されて晒し首にされた[3]

三重県四日市市川島町の西福寺境内に能森の墓があり、近くに「江三郎塚」がある。

説話[]

  • 『平家物語』の『志度の戦い』では、16騎で3000騎を率いる阿波国の水軍に向かい、平家の家人の田口教能(粟田左衛門尉教良)を巧みに欺き降伏させた。能森は紀伊国勝浦でも、おなじく平家の家人の近藤親家を懐柔している。
  • 『義経記』では、終始義経と運命を共にして、平泉で戦死にしたとされる。

脚注[]

  1. 『東鑑』
  2. 『吾妻鏡』と『平家物語』では、義仲を討ち取ったのは三浦氏一門の石田為久(碓井貞光の後裔)である。
  3. 『玉葉』

参考文献[]

  • 『源義経 流浪の勇者』(上横手雅敬/文英堂/2004年)
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