張嶷の昔なじみの何祗像
何祗(かし、生没年不詳)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の政治家。字は君粛。子の名は未詳。彼の伝記は『蜀書』「楊洪伝」が引く『益部耆旧伝』の雑記にある。「何祇」とも呼ばれる。
概要[]
蜀郡郫県[1]の人。親友の張嶷同様に寒門出身だったが、寛容で気さくな人柄だった。また堂々とした体格を持ち、女と音楽を好み、食欲旺盛で好色だったので節操に欠けるところがあった。そのため、友人は少なかったが、張嶷だけは親しく接していた。
若いころ、何祗は井戸の中に桑の木が生える夢を見た。そのため夢占師の趙直から「桑の木は井戸の中に生えるものではありませんから、植え替えるべきです。しかも桑の木は四十の下に八を記します」といった。さらに趙直は「つまり…あなたは出世するが、48歳で亡くなるでしょう」と指摘された[2]。何祗は笑って「それで、充分ですよ」といった。
その後、何祗は蜀郡太守・楊洪の門下書佐として仕官した。彼は類まれなる才知と能力があったので、楊洪は彼を郡の従事に推挙したところ何祗は能力を発揮し、やがて督軍従事に累進した。数年後には広漢郡太守となった。人々は楊洪が人材を発掘したと噂し合い、それを聞いた諸葛亮も楊洪が何祗を抜擢した功績を褒め称えた。以降は朝廷で何祗は楊洪の次席として累進したのである。
あるとき、楊洪は「君の馬はどうやれば走るのかね?」とからかっていった。すると何祗は「わたしの馬がなぜ思い切り走らないのかといえば、楊洪どのご自身が乗馬されて轡を揮って走らないからです」といった。楊洪は思わず笑い出してしまい、以降からこの逸話は談話の話題として使用された。
また、親友の張嶷が度重なる過労で病に倒れたが、治癒の資金に困っているときに、病を押して馬車に乗って久しく会ってなかった何祗の邸宅を訪ねて、事情を話して嘆願した。話を聞いた何祗は無条件で資金を差し出したので、医師の治療を受けて完治した張嶷は死ぬまで何祗の恩義を忘れなかった。
丞相の諸葛亮は“酷吏”に相当する峻烈な法政家だったので、何祗の勤務状態が怠惰と聞いて、何祗を取り調べるように命じた。それを聞いた何祗は牢獄にいる罪人の行為を調査した罪状書を熟読し暗記した。
ある早朝に、諸葛亮が何祗の下に訪問すると、何祗はいきなり罪状書の暗記をすらすらと述べ、少しも間違いがなかった。諸葛亮は彼の能力を評価し、成都県の令に任命した。さらに隣接する郫県の令を兼務した。両県は犯罪が多く、何祗が表面的には適当にしていたが、その本質を見抜く能力があったので、人々は何祗の摘発をおそれて、徐々に犯罪者は減少した。
後に広漢属国汶山県[3]にいるチベット系羌氐が不穏な動きがあると、何祗は広漢属国の太守に任命され、それを鎮圧させる治績を挙げた。
数年後に隣接する広漢郡太守になると、羌氐は再び反乱を起こした。間もなく羌氐の各族長たちは「何祗どのが赴任して来るのなら、われらは落ち着いて喜んで臣属する」と言い訳をいって巧みに逃れた。
そこで、朝廷は何祗の一族を広漢属国に近接するある郡の太守に任命し、こうして羌氐の乱は収まった。後に何祗は犍為郡太守に転任し、趙直の言葉通りに48歳で逝去した。家督は子が継いだ。