傅士仁像
傅士 仁[1](ふし じん、生没年不詳)は、蜀漢(蜀)の部将。姓は傅士[2]、諱は仁[2]。字は君義。傅士某の父、前梁の豫州刺史の傅士哲の遠祖といわれる[2]。
概要[]
広陽郡[3]の人。彼の伝記は『蜀書』楊儀伝/関羽伝および、『呉書』呂蒙伝が引用する『呉書』(韋曜(韋昭)の著作)に記されている。
若き劉備が挙兵する際に劉亮(劉備の弟)・劉展(劉備の従弟)・劉徳然(劉備の族兄弟)・簡雍(耿雍、劉備の外従弟)・張飛・田豫(田予)とともに従軍して、各地で戦った[4]。
219年に、劉備の命で南郡公安県[5]に駐屯して、蜀漢の外戚である南郡太守の糜芳とともに関羽と共同補佐をして呉の孫権に備えた。しかし、傅士仁と糜芳は関羽と折り合いが悪く、樊城の曹仁(曹操の族弟)を包囲した関羽に対して、食糧輸送を意図的に怠る行為をした。これを聞いた関羽は激怒して「あのふたりは、わしが嫌いなので、わざと食糧輸送を遅らせておるのだ。わしが凱旋したときには、お上(劉備)に申し上げて、ただちに厳重な罰の制裁を加えてやるぞ!」と物騒なこと言った。
これを聞いた傅士仁は、糜芳とともに畏れ慄いてしまい、襄陽城を任されている潘濬らとともにこれからの相談を重ねた。そのときに孫権の部将である呂蒙が派遣した虞翻が船商人に扮して降伏を勧告をしてきた。当初の傅士仁はこれを断固と拒否したが、すでに彼らの周辺は呉の軍勢に包囲されていた。これを見た傅士仁は挙兵以来から忠実に従って、自分を要職に抜擢した恩義がある劉備に大変申し訳ない気持ちを抱いて、落涙して糜芳と潘濬らとともに呉に降伏した。
以降からの傅士仁は、孫権に厚遇され、後に傅士仁が逝去するとその息子が後を継いだという[2]。
280年に呉が晋の世祖武帝(司馬炎)が討伐させた総都督の杜預によって滅ぼされると、傅士仁の後裔たちは優遇されたという[2]。