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元平親王

陽成源氏の祖・元平親王

元平親王(もとひらしんのう、891年(寛平3年)/895年(寛平7年)/897年(寛平9年)?[1] - 958年6月12日(天徳2年5月23日))は、平安時代中期の皇族。陽成天皇の第3皇子。生母は主殿頭・藤原遠長(連永)[2]の娘。異母兄に源清蔭、同母兄に元良親王(もとなが、元長親王)、異母弟に元利親王源清鑒(きよあき)・源清遠ら。陽成源氏の祖となる。暴君として有名だった父の陽成天皇譲りの破天荒な性格で、京の遊女を孕んで、満仲満政らを儲けたという[3]

概要[]

左侍従/弾正尹を歴任して、930年12月14日(延長8年11月22日) に式部卿となり、三品に昇進した。958年6月12日(天徳2年5月23日)に没した。齢62あるいは64または68という。

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  1. 源満仲(満明/満名) : 臣籍降下以前の名は、「兼明王」/「兼名王」。後に多田満仲と称して、晩年は満慶入道と号する。陽成源氏の祖にあたる。
  2. 源満政 : 臣籍降下以前の名は、「兼正王」。八島大夫(村岡大夫)と号する。この系統は美濃国を本拠地として、八島氏羽島氏/美濃源氏)と称した
  3. 源満季 : 臣籍降下以前の名は、「兼季王
  4. 源満実 : 臣籍降下以前の名は、「兼実王
  5. 源満生(みつなり) : 臣籍降下以前の名は、「兼生王
  6. 源満重(満成) : 臣籍降下以前の名は、「兼成王」。満信の父
  7. 源満快(満扶) : 臣籍降下以前の名は、「兼扶王」。満国[4]・行満(行頼)・行季の父。一時的に信濃国に赴任して、信濃介と称したことがある
  8. 源満頼 : 臣籍降下以前の名は、「兼頼王」。兄の満季の子ともいわれ、祖父の元平親王の養子になったという
  9. 昭子女王[5] : 藤原兼通室(藤原北家)、顕光らの生母

脚注[]

  1. 『系図纂要』
  2. 藤原北家魚名流の系統で、藤原直道の子。
  3. 孫の頼信の『頼信告文』より。
  4. 為満の父、為公(ためとも/ためまさ/ためたか)の祖父、為平(為衡)・為快(為扶)・為邦(村上判官代)・為実・為基・為氏の曾祖父、為国・為高(為邦の子)と為行(為基の子)の高祖父、為重(弥太郎)・行実(弥三郎)(為行の子)の6世の祖。
  5. 有明親王(醍醐天皇の皇子)の娘の能子女王と同人物とする説がある。

関連項目[]

  • 陽成源氏源氏
  • 源満仲 : 長男
  • 貞純親王 : 叔父、六孫王(源経基)の父
  • 源経基 : 従弟、清和源氏の祖と伝わる(東京帝国大学文学部の名誉教授の星野恒は、『源頼信告文』を引用して経基の父の貞純親王が早世したため、経基は伯父の陽成天皇の養子になった説を唱えている)。あるいは、弟の源経生(つねなり)の系統(子の経邦(公節)、孫の忠季がいたが、それ以降は不詳である)とされる。あるいは、経基の子である経忠経義/経明)・経高父子の後裔である竹内信治(左近将監)・氏治(竹内大夫)父子が公家貴族の竹内家の祖になったという