公孫勝(こうそんしょう、? - 紀元前479年)は、春秋時代末期の人物。姓は羋、氏は白、諱は勝。楚の公族で、太子建[1]の子、公孫燕[2]の兄。
概要[]
紀元前522年に父が祖父の平王(弃疾/居)から疎まれて、周王室系の藩屏国である鄭(姫姓)の定公(寧)を頼った。紀元前520年に太子建は晋と共謀して、鄭を滅ぼす計画を企てたため、先手を打った鄭の公族で宰相の公孫喬(子産、国氏の祖)によって誅殺された。
父を殺された公孫勝は近侍の伍子胥(伍員)とともに呉に逃れた。成長すると、令尹である伯父(太子建の庶長兄)の公子申(子西/景申)[3]によって呉から召還されて、叔父の昭王(軫/珍)から巣の大夫に任じられて、巣の別名である「白」の地名と採って以降から「白公勝」と呼ばれた。
紀元前487年にに鄭の公孫喬によって殺害された亡父の恨みを忘れず、その仇を討つべく、昭王の太子であった従弟の恵王[4](章)に上奏した。恵王の傍らでこれを聞いた年老いた伯父で令尹の公子申はそれを許可したが、その準備は整えていなかった。しかし、紀元前481年に晋が鄭を攻撃したので、鄭は楚に援軍を要請した。恵王は公子申に命じて、鄭に援軍を向かわせた。
しかも、公子申は鄭から賄賂を受けて、晋との和議を成立して引き揚げたために、これを聞いた白公勝は激怒した。紀元前479年夏6月に白公勝は反旗を翻して、刺客の石乞に命じて宮中で、公子申の弟で(白公勝の)叔父の司馬の公子結(子期/子綦)と公子啓(子閭)を暗殺させた。さらに、恵王を別邸で幽閉したが、恵王はひそかに一族の屈固[5]に救助されて、継母の邸宅に匿われた。
白公勝は自ら「楚王」と称したが、翌秋7月に恵王は一族の葉公の沈戌(沈尹戌)の子である沈諸梁[6](子高)に命じて、白公勝を攻撃させて彼を山中に自決に追い詰めて、さらに捕らえられた石乞は釜茹での刑に処された。そのために弟の公孫燕[2]は、辛うじて呉の頯黄(頍黄)に逃れた。なお、秦の将軍である武安君の白起[7]および、後漢末の董卓の孫娘の渭陽君は白公勝の末裔という。