公孫度(こうそんたく/こうそんど)とは、中国の人物で、約2名ほど存在する。
- 公孫度 (前漢) : 菑川郡薛県[1]の人。前漢の平津献侯・丞相の公孫弘[2]の子。父の後を継いで、10数年後の山陽郡太守のときに罪を犯したため、労役刑に処せられて、列侯を剥奪された。安漢公・摂皇帝の王莽(後の新の皇帝)が前漢から皇位を剥奪する直前の時代の元始年間[3]に、爵位を剥奪された功臣を称えるために、公孫弘・公孫度父子の末裔が関内侯に封じられた。
- 公孫度 (後漢) : 字は升済。遼東郡襄平県[4]の人。燕の太子丹(姞丹)の後裔といわれ[5]、公孫延の子、公孫康・公孫恭の父、公孫晃・公孫淵[6]の祖父、公孫脩(公孫修)の曾祖父。初名は豹。父は後漢末の玄菟郡太守の公孫琙の従事であり、公孫琙の夭折した子の名が、公孫度の初名と同じ「豹」だったという理由で可愛がられ、その援助の下で学問を学んだ。竹馬の友の徐栄が主君の董卓に推挙したことで遼東郡太守となり、後に自ら遼東王を称した。