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このページに本来の項目名が表記できない機種依存文字があるため、仮名・略字または代用文字を用いて封印しています。本来の表記は『劉縯』です。

豪放磊落な劉縯

劉縯(りゅういん/りゅうえん、? - 紀元23年(更始元年))は、前漢末期~後漢初期の皇族部将。字は伯升[1]。諡号は斉武王。

高祖劉邦の9世の末裔で、長沙定王の劉発[2]の庶子・舂陵節侯・劉買の玄孫であり、曾祖父は鬱林郡太守・劉外、祖父は鉅鹿郡都尉・劉回(劉囘)、父は汝南郡の南頓県令・劉欽光文帝)、叔父は趙孝王の劉良で、従弟は趙節王の劉栩(劉良の子)である。生母は樊嫺都は南陽郡湖陽県の有力豪族・樊重[3]の娘、姉は劉黄と劉元、弟は魯哀王の劉仲[4]と後漢の世祖光武帝劉秀)、妹は劉伯姫(李通夫人/寧平長公主)。早く父を失い、当時10代後半だったとされる劉縯は一家の大黒柱となる。

子は斉哀王の劉章・北海靖王の劉興[5]・汝陽恭敦王の劉彦[6]ら。蜀漢)の烈祖穆帝(繆帝)劉備の先祖に当たると伝わる[7]

概要[]

南陽郡蔡陽県白水(舂陵)郷[8]の人。劉縯は遠祖の高祖譲りである生来の豪放磊落であり、仁義・任侠を好み、族兄弟の劉稷とともに様々な豪傑と交わって義兄弟の契りを結んで、多くの財宝を捻出したため生家は破産寸前だったと伝わる。

彼は若いころ、族弟である劉嘉とともに長安の茂陵で学問を学んだが、あまり勉学に熱心ではなかったようである。

学業を終えて、郷里に戻った劉縯は梁郡の人・申屠建[9]の同母弟の申屠臣[10]が医術に巧みだったと聞いて、これを招き寄せたが劉縯を毛嫌いした気難しい申屠臣は劉縯と波長が適わずに衝突が多かった。ついに激怒した劉縯は配下に命じて、申屠臣を誅殺した。申屠臣の兄・申屠建は弟を殺した劉縯を恨んだが、多くの食客を抱え、名士を恫喝させた劉縯の勢力が侮れないので、親交があり縁戚関係でもある南陽郡宛県の豪族・李通[11]のもとに、家族とともに頼った。

紀元22年(地皇3年)冬10月の都試の日に、劉縯は妹婿の李通を脅迫したので、申屠建は親交がある李松[12]のもとへ逃れた。李通・李軼[13]をはじめ、南陽郡鄧県[14]の豪族・鄧晨[15]を弟の劉仲と劉秀に命じて打倒王莽による挙兵させた。自らは白水郷で挙兵し、9千人の部曲(私兵)を従えて、これを「柱天都部」と名付けた。

彼は族弟の劉賜を派遣して、隣接する新市兵の王匡や平林兵の陳牧ら呼応させて、その軍を合流&吸収させることに成功した。勢いづいた劉縯は長聚郷と唐子郷を蹂躙させ、湖陽県の尉を殺害し、そのまま棘陽県を攻略しこれを陥落させた。そして、引き続き宛県城を攻略したが、新王朝の皇帝・王莽が討伐させた前隊大夫・甄阜と属正・梁丘賜の軍勢に大敗し、弟の劉仲をはじめ、親族数十人が戦死した。また、鄧晨の妻である姉・劉元とその3人の娘は、巻き添えになって新の軍勢に捕虜されて殺害された[16]

手痛い敗北をした劉縯は軍を撤退させて郷里の南陽郡蔡陽県白水(舂陵)郷に帰還し、籠城した。新の将軍の甄阜と梁丘賜は戦果に勢いに乗じて輜重隊[17]を藍郷に駐屯させて、10数万を率いて黄淳水の南岸を渡河し、付近の沘水に布陣して黄淳水・沘水を渡河を遮断させ、同時に両将軍は後方の橋をすべて破壊して撤退する意思がないことを周りに示した。

翌23年(地皇4年)に、策を思いついた劉縯は末弟の劉秀と義弟の李通を従えて、勢力を持っている宜秋郷の下江兵を訪れ、その頭目・王常とは「断金」の交わりを誓う義兄弟の契りを結び、そのため下江兵5千余人は南陽兵、新市兵、平林兵と合流し、その傘下に加わった。劉縯自らは盛大に宴会を開いて、多くの傘下の軍勢の幹部連中に気前よく振る舞って、自分のために戦うように盟約を交わした。同時に兵卒を数日間、休養させて豪族連合軍を6つの部曲に再編成した。

ある日の深夜に劉縯は各軍勢を分けて発進させて、新軍が駐屯する藍郷を襲撃し、壊滅させて多くの食糧や防具を奪い取った。その翌朝、劉縯ら西南方から甄阜を、王常率いる下江兵は東南から梁丘賜を攻撃した。ちょうど朝食時だった梁丘賜の軍勢は総崩れとなり、その報を聞いた甄阜の軍勢も浮足立って敗走した。しかし、劉縯は勢いに乗って新軍を追撃して、ついに甄阜と梁丘賜を捕らえてこれを斬首して陣門に晒し首とした。多くの新軍も黄淳水や沘水で溺死しその数は数万に及んだと伝わる。

王莽の腹心である納言大将軍・厳尤と秩宗大将軍・陳茂は甄阜と梁丘賜が敗死した報を聞いて、そのまま宛県に籠城した。これを察知した劉縯はかつての前漢の名将・韓信の『背水の陣』を倣って、多くの食糧庫を焼き払い、釜甑を破壊させた。

多くの軍勢に「もう後がない」という絶望・窮地に陥らせた劉縯は盛んに軍鼓を叩き鳴らして、自ら前線に立って厳尤と陳茂と育陽県で大撃破した。新軍の首級2千余を得て、大敗した厳尤と陳茂は東方の汝南軍に逃れた。こうして劉縯は自ら「柱天大将軍」と称して、宛県城を包囲した。劉縯の名が天下に轟かせたことに怯えた新の皇帝・王莽は懸賞金として劉縯の首を奪った者には「上公の爵位、1万戸の食邑、5千万銭」を授ける法令を下した。さらに、長安の茂陵を中心とした各官庁などに劉縯の肖像画を描かせて、毎朝それを射させるように命じた。

また、劉縯が南陽郡宛県を討伐したときに敵将の岑彭を捕虜とした。多くの各将たちが「岑彭を斬首すべきだ!」と叫んだが、劉縯は「わしはそうは思わん。岑彭は節義に富んだ人物である」と岑彭を庇って、これを助命する寛容さを見せた。

劉縯の手腕で、甄阜と梁丘賜の軍勢を壊滅し、南陽兵は劉縯の威光にひれ伏して南陽郡および汝南郡の小豪族がまとめて10余万人が降伏した。しかし、漢王室の象徴となる天子が存在していなかったので、多くの有力豪族たちは漢の天子を立てることにした。

そこで、南陽郡および汝南郡の各豪族たちと下江兵の王常は劉縯を推薦したが、逆に新市兵の王匡と平林兵の陳牧らは劉縯の族兄弟である暗愚とされる劉玄(聖公)を推薦し、自分たちの傀儡として操ろうと目論んでいた。結局、劉縯は李松とともに劉玄の側近となった申屠建の抗議もあり、かつて名士の申屠臣(申屠建の同母弟)を殺害したことが災いし、結局は暗愚の劉玄が漢の天子の座に就くことになった。23年(更始元年)春2月の朔日に劉玄は帝位に即き(更始帝)、天子の座を逸した劉縯は漢信侯に封じられ、大司徒に任命された。

更始帝派である平林兵の軍勢が新野県城を攻略したが、なかなか陥落することができなかった。そこで、更始帝は劉縯を総大将に任じて、派遣させた。すると、軍勢を統括した宛の県宰[18]の潘臨が城壁に登って兵卒の前で「漢の大司徒(劉縯)ならば、(よい仲介に導く)信ずるに値する!」と言い、城門を開いて直接、劉縯の前にひれ伏して降伏した。こうして、宛県城はついに劉縯の手によって陥落した。夏5月のことだった。この報を聞いた更始帝の腰巾着である王匡と陳牧らは不快感を示したという。

その一方、劉縯の部将で族兄弟でもある劉稷は南陽兵の将軍として南陽・汝南郡にある各地の陣営を陥落させる功績を挙げた。かつて、劉稷は魯陽県を攻略したとき、暗愚な更始帝が帝位に即いたと聞いた途端、激怒して「もともと、打倒王莽を大義名分として挙兵して今日の勢力を築いたのはわれらが劉伯升(劉縯)・劉文叔(劉秀)兄弟だ。同族とはいえ暗愚で傀儡向きの劉聖公(更始帝)は何の功績を残したというのだ?!」と叫んだ。これを聞いた王匡と陳牧らは劉稷を陥れようと薄ら笑いしたという。

翌夏6月、劉稷は宛県に参内した。劉稷を恐れた更始帝とその腹心である新市兵と平林兵の領袖である王匡と陳牧たちは劉稷を懐柔して「抗威将軍」に任命しようとしたが、かえって劉稷は暗愚な皇帝一派に罵詈雑言を浴びてこれを拒否した。自分が馬鹿にされたと思った更始帝は怯えて、王匡と陳牧および成丹・張卭ら新市兵と平林兵の領袖たちに唆されて、ついに劉稷を逮捕投獄した。

劉縯は親族の中でも最も親しい劉稷が投獄されたと聞いて、急いで参内してすぐに劉稷を釈放するように抗議した。しかし、既に更始帝の側近となった大司馬・朱鮪と五威将軍・李軼は族兄である丞相・李松と西屏大将軍・申屠建とともに共謀を諮った。彼らはかつて劉縯が殺害した申屠建の同母弟の申屠臣と親しかったので、これをいい機会と捉えて、更始帝に上奏して「大司徒(劉縯)と「抗威将軍」(劉稷)は将来の禍となるから、即刻誅殺すべし!」と述べたので、王匡と陳牧および成丹・張卭ら領袖たちの利害と一致しついに劉縯も逮捕投獄され、数日後に劉縯は劉稷とまとめて市場で処刑され、晒し首となった。

後に、兄の非業の死による報復に動き出した劉秀は、自分を裏切った朱鮪と李軼を討伐した。だが、朱鮪と李軼が仲違いし、先手を打った朱鮪が李軼を殺害し、その首を持って光武帝(劉秀)に降伏したので、光武帝は朱鮪を赦し、これを臣下に加えた。李松も25年に漢の旧皇族の劉盆子を擁立した、赤眉軍の頭目・樊崇と徐宣に攻められて討たれた。申屠建も同25年に更始帝の不興を買って、家族ごとに族誅されてしまった[19]

さらに劉縯を讒言して、葬った要因をつくった王匡と陳牧や成丹・張卭らも最期は相次ぐ敗戦のために更始帝の猜疑を受けて、誅殺されたのである。

劉縯に関する隠された事項[]

『東観漢記』、『元本[20]、林国賛の『三国志斐註述』などを総合した本田透『ろくでなし三国志』)によると、以下になる。

  • 劉縯には長男の斉哀王の劉章[21]、次男の北海靖王の劉興がいた。特に弟の劉興は戦死した叔父の魯哀王の劉仲の養子となり、魯王となるが後に北海王に転封された[22]。末子の御筆恭敦王の劉彦は、81年に67歳で病没した[23]
  • 「北海靖王・劉興」と「中山靖王・劉勝」は意外と紛らわしく、混同されがちなので彼の劉備の先祖である「北海靖王・劉興」の部分を諸葛亮および、その意向を受けた陳寿あたりが「中山靖王・劉勝」に変更させた可能性が高い
  • その劉興には長男の北海敬王・劉睦、庶子の臨邑侯・劉復がいた。劉復には嫡子の劉騊駼がいて、父の後を継いで鄧皇后(鄧娞)に信頼され、後漢の中任校書郎に任命され、126年に没した[24]
  • 臨邑侯の封地は後漢時代の区域でいうと、豫州に隣接し兗州・東郡臨邑県[25]とされ、『三国志』で著名な「小沛」あたりにあったと推測される[26]
  • 劉騊駼の子[27]が後を継ぐも、永建年間(126年~132年)に酎金未納の廉で爵位を剥奪され、北方にある幽州・涿郡涿県に強制移住されたこと
  • また劉復の庶子で、劉騊駼(126年没)の異母兄[28]が劉雄の父で、劉備の曾祖父にあたること[29]
  • 同時に劉雄の父も連坐され爵位を剥奪されて、同じ涿郡涿県に強制移住されたこと
  • 劉備に学問の資金を提供した従父の劉元起は、劉騊駼の直系の孫にあたること

結論

劉縯の系統とその弟の光武帝(劉秀)の系統を比較すると、日本でいう賜姓皇族・河内源氏陽成源氏)の一族で、前者が上野源氏新田氏(兄)で後者が下野源氏足利氏(弟)のような関係であり、劉備の任侠の気概を考慮すると劉備は劉縯の末裔であろうと推測される[30]

脚注[]

  1. 司馬彪『続漢書』、袁宏『後漢紀』では伯昇
  2. 高祖の曾孫で、太宗文帝(劉恒)の孫、成祖景帝(劉啓)の第7子に当たる。
  3. 前漢の功臣の樊噲の末裔という。
  4. 諱は劉嬉という。
  5. 後に叔父の魯哀王・劉仲の養子となる。
  6. 字は御筆。殤王の劉達の父。父が誅殺されると、同族の劉載に匿われたという(『項城県志』)。
  7. 『典略』による(他の臨邑侯は真定湣王・劉楊(劉揚)の弟・劉細(劉紺)がいるが、劉細の子および末裔は史書に記されてないので、該当しないと推測される)。
  8. 現在の湖北省襄陽市棗陽県
  9. 『資治通鑑』が引く胡三省によると、申屠は「申徒」と同様であると述べている。
  10. 前漢の名臣、丞相・申屠嘉の末裔という。
  11. 劉縯の妹・劉伯姫の婿に当たる。同時に申屠臣の従弟に当たる(父の姉妹の子、あるいは母方の従弟)。
  12. 李通の族弟、ただし李松自身は参戦しなかった。
  13. 李通の従弟。
  14. 現在の河南省南陽市新野県
  15. 劉縯の姉・劉元の婿、「雲台二十八将」のひとり高密元侯・鄧禹の族兄である。
  16. ただし、外叔父の劉縯に従軍した鄧晨の子・鄧汎(呉房侯)・鄧棠兄弟が亡き生母と姉妹の祭祀を引き継いだ。
  17. 食糧輸送隊のこと。
  18. 新野の県宰説もある。
  19. ただし、北宋の司馬光の『資治通鑑』に記されている後漢末の学者・申屠蟠(董卓の招聘を受けるも、これを断り70余歳で没した)は、劉縯に殺害された申屠臣、あるいは同族の申屠剛(字は巨卿)の末裔とも言われる。
  20. 元大徳九路本十七史』、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。
  21. はじめは太原王。
  22. 『後漢書』斉武王縯伝&北海靖王興伝
  23. 『中国の書道史』より。
  24. 臨邑侯・劉復も劉勝の庶子で陸成侯・劉貞に変更させた可能性が高いという。
  25. 現在の山東省徳州市臨邑県。『劉備出自考』(津田資久(国士舘大学教授)/国士舘人文学第3号/2013年)でも、この説を支持している。
  26. 後世に呂布および曹操が、劉備を豫州牧(呂布の場合は刺史)に据えて小沛に駐屯させたのは劉備の「父祖ゆかり」の地域だった可能性が高いと思われる(劉備の尊称でもある「劉豫州」の例などがある)。
  27. 諱は「劉員」または「劉貞」とも伝わる。
  28. 爵位は「武邑亭侯」で名は「劉冀」と伝わる。
  29. 『典略』
  30. 前述にある『蜀書』先主伝に記述されている「劉備は中山靖王の劉勝の子である陸城侯・劉貞の末裔である」という部分は、先の諸葛亮と陳寿が婉曲的に曖昧な記述した部分も大きいという見方もある。

関連事項[]

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