妻子を巻き込んだ独善的な劉㻣
劉㻣(りゅうしん、238年? - 263年冬)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の皇族。字は未詳。「劉諶」とも表記される。
烈祖穆帝の劉備の孫、後主懐帝の劉禅の5男で、生母は張皇后[1]と伝わり、正室は崔妃[2]で、その間に3人の王子を儲けていたという。
太子兼梁王の劉璿・安定王の劉瑶(劉揺)・西河王の劉琮(劉綜)・新平王の劉瓚(劉瓉/劉讃)の異母弟、新興王の劉珣(劉恂)・上党王の劉璩(劉琥/劉虔)の異母兄、叔父もしくは従兄は安平悼王の劉理[3]、おなじく従兄は甘陵王の劉琳[4]ら。
概要[]
238年ごろに生まれ、259年夏6月に北地王に封じられた。生まれつき苦労を知らずに、独善的な考えを持ち、人々の感情を逆撫でするところがあり、特に異母長兄の太子・劉璿を「無能」呼ばわりしたという。
263年冬に、魏の鍾会・鄧艾による遠征軍が成都に迫ると、民の安全を考慮して魏に降伏すべきと大臣たちと建議した父・劉禅に上奏するために、急いで参内し、「お父君!高祖(劉邦)以来の漢を滅ぼすおつもりですか?あの世で先主(劉備)に面目がたちません!」と叫んで、魏に対して徹底的に抗戦すべきだと言ってこれに猛反対した。
しかし、劉禅はかえって激怒し「汝のような小倅に何がわかる。すでに漢の時代は終焉したのだ!」とこれを避けて、光禄大夫の譙周(陳寿の師)に命じて、劉㻣は強制的に朝廷から退出された。
北地王邸の屋敷に戻った劉㻣は、正室の崔妃にむかって「わしは潔く烈祖の廟に参り、自決してお詫びする。お前たちも参れ!」と叫んだ。崔妃や3人の息子たちは怯えていたが、劉㻣は有無を言わせずに家臣に命じて強引に劉備の廟に向かわせた。
そのあと、しばらくして劉㻣は祖父・劉備の廟像にむかって「高祖以来の漢が滅亡する形の“漢は蜀からはじまり蜀で滅ぶ”という結果になってしまい、まことに申し訳ありません!」と激しく慟哭した。その後、未だに怯えて震えている崔妃と3人の息子たちを家臣に命じて、殺害して、それを見届けると自らも壮絶に自決して果てた。劉㻣の近臣たちも殉死したという。このとき劉㻣は享年26だったという。
なお、彼の墓標には墓には「劉禅の第5子」ではなく「劉備の孫」と記されている。
劉㻣のこの独善的ともいえる、祖父を狂信的に崇拝する行為は、後世の徳川家光[5]と共通する部分があるといえよう。
脚注[]
- ↑ 張飛の次女、敬哀皇后の妹、孝懐皇后とも呼ばれる(『蜀世譜』)。
- ↑ 崔州平(涿郡安平県(博陵郡)の人で、諱は未詳。後漢の太尉・崔烈の少子、崔均(字は元平、崔鈞とも。金で官職を買った父を「銅臭大臣」と批判した。虎賁中郎将・西河郡太守を歴任し、その子孫が崔駰(崔寔の祖父)である(『後漢書』崔駰伝)。遠祖は崔盤(崔烈の父)であり、兄の崔均(崔鈞)の10世孫が崔昻と伝わる(『新唐書』「七十二巻‧表第十二・宰相世系二・崔氏譜」)の弟で、諸葛亮の親友)の孫娘という。
- ↑ 劉備の次男で、劉禅の同母兄の劉某(字は公仲、197年~218年?)の子という(『元本』(『元大徳九路本十七史』、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書))。
- ↑ または劉林、劉封の子。
- ↑ 家康の孫。八切止夫の説によると生母は春日局(お福)という。
関連項目[]
- 張飛:劉㻣の外祖父と伝わる
- 崔州平:妻の祖父という