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劉備の従曾祖父の劉騊駼

劉騊駼(りゅうとうと/りゅうとうず、? - 126年)は、後漢の皇族である。斉武王・劉縯の曾孫、北海靖王・劉興の孫、臨邑侯・劉復の嫡子である。弟に武邑亭侯・劉冀劉雄の父、劉弘の祖父)、子は劉員(劉貞)、孫は劉元起劉超)、曾孫に劉徳然劉義)がいる。すなわち劉備の従曾祖父にあたる[1]

概要[]

東郡臨邑県[2]の人で、父の劉復は54年に、従祖父にあたる世祖光武帝劉秀)によって東郡臨邑県を拠点とする臨邑侯[3]に封じられた。劉復は従父にあたる顕宗明帝(劉荘/劉陽)の治世に『東観漢記』の編纂に携わっていたほどの博識者であった[4]

若いころからの劉騊駼は父譲りの博識者で知られた。後に孝廉に推挙されて、父の劉復が亡くなると、臨邑侯の爵位を相続した。後に和帝(劉肇)の鄧皇后(鄧娞)[5]に信頼され、安帝(劉祜)の治世の永初年間(107年~113年)ごろに中任校書郎に任命された[6]

彼は謁者僕射で同族の劉珍(劉宝)・李尤・張衡・蔡倫(宦官)とともに、亡父らが携わったことがある『東觀漢記』を編纂した[7]。さらに同じく博識者であった従兄の平望侯の劉毅[8]と馬融[9]とともに『五経』を編纂した[10]

126年に『東觀漢記』の編纂を完了すると、劉珍とともにまとめて逝去した。

子の劉員が後を継いだが、威宗桓帝劉志)~霊帝劉宏)の治世下の永建年間(126年~132年)に酎金[11]未納の廉で爵位を剥奪され、北方の涿郡涿県に強制移住されてしまった。甥の劉雄も父の後を継いで武邑亭侯となるも、従兄の劉員の行為に連坐で爵位を剥奪された。後に劉雄は孝廉に推挙されて、議郎となり最終的には東郡范県の令となった。

脚注[]

  1. 蜀書』先主伝が引く『典略』を参照とした。
  2. 現在の山東省徳州市臨邑県。『劉備出自考』(津田資久(国士舘大学教授)/国士舘人文学第3号/2013年)でも、この説を支持している。
  3. 真定湣王の劉楊(光武帝の族父、共王(恭王)の劉普の子、妻の郭聖通の外叔父)の弟の臨邑侯・劉譲が26年に兄とともに、謀反の罪で光武帝の命を受けた耿純(劉襄の外甥、簡雍の祖)によって誅殺されたため、臨邑侯はいったん除かれた。劉復は嗣子がなかった劉譲の養子として後を継いだ。
  4. 『後漢書』北海靖王興伝
  5. 護羌校尉・上蔡侯の鄧訓(高密元侯・鄧禹の6男)の娘、大将軍の鄧隲(鄧騭とも、鄧芝の祖)の妹にあたる。
  6. 『後漢書』皇后紀上「和嘉鄧皇后紀」より。
  7. 『後漢書』張衡列伝
  8. 敬王の劉睦の子、哀王の劉基の弟、無王の劉威(斟郷侯)の兄、頃王の劉普(寿光侯)の伯父。
  9. 太傅の馬日磾の従父で、馬超の従祖父でもある。
  10. 張文清著の『張衡年譜』より。
  11. 前漢の太宗文帝(劉恒)の代に作られ、その子の成祖景帝(劉啓)・世宗武帝(劉徹)父子の代には盛んに実施された制度である。春正月から秋8月までにかけて造酒したものを皇室の宗廟(祖霊を祀る場所)に奉げる祭祀で、漢の皇族・宗室および諸侯は金銭の全額負担の義務の制度があった。それを怠ると爵位を剥奪されることが多かった。後漢もその制度を受け継いだと思われる。

参考文献[]

  • 『通典』職官典26巻(の杜佑著)

関連項目[]

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