劉亮(りゅうりょう)とは、漢の皇族・宗室かつ宗族、および非皇族。約4名ほど存在する。
- 劉亮 (叔朗) : 字は叔朗、劉備の同母弟とされ、簡雍(耿雍)の母方の従兄弟という(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。187年の『田野の戦い』で従兄弟の劉展(劉敬の子)、族兄弟の劉徳然(劉義とも、劉元起(劉超)の子)と戦死したという。
- 劉亮 (宋漢) : 宋漢の官僚。前漢の楚元王の劉交[1]の後裔とされ、劉懐黙[2]の孫、劉孫亮[3]の子。彭城郡彭城県安上里[4]の人。世祖孝武帝(劉駿)に仕えて、武康県の令となった[5]。
- 劉亮 (趙漢) : トルコ系匈奴屠各(屠客)部攣鞮(虚連題)氏族の王朝である趙漢の皇族。一族の独孤氏族の大人である劉進伯の曾孫、劉尸利の孫、劉烏利の子、単于の羌渠と去卑と劉猛の弟、於扶羅の叔父、劉豹(烈祖武烈帝)の大叔父、劉淵(高祖光文帝)の従曾祖父、劉広(献帝)の父、劉防(懿帝)の祖父、劉緑(宣成帝)の曾祖父、劉曜(世祖昭烈帝)の高祖父。玄孫の劉曜から「景帝」と諡された。
- 劉道徳 : 北魏(代魏)末~西魏~北周初期にかけての軍人。北魏の蔚州刺史・領民酋長の劉佑連(トルコ系?)の孫、鎮遠将軍・領民酋長の劉持真の子。北周の太祖文帝・宇文泰(鮮卑化した匈奴俟汾部が鮮卑宇文部の大人)から「諸葛亮の再来」と評され、「劉亮」と改名するのと同時に鮮卑姓である「侯莫陳」氏の姓を賜った。