劉康(りゅうこう)とは、漢の皇族・宗室、および非皇族。約7名ほど存在する。
- 劉康 (定陶王) : 前漢の高宗元帝(劉奭)の子、統宗成帝(劉驁)の弟、中山孝王の劉興の兄、哀帝(劉欣)の父。はじめは、済陽王に封じられて、山陽王を経て、定陶王に転封され、恭王と謚された。子の劉欣が即位すると、「恭帝」と追号された。
- 劉康 (建郷侯) : 前漢の魯孝王の劉慶忌の孫、頃王の劉勁(劉封)の子、文王の劉睃・郚郷侯の劉閔の弟、新陽頃侯の劉永の兄、劉自当の父。建郷侯に封じられて、釐侯と謚された。子の劉自当が後を継いだが、漢を簒奪した新の王莽によって廃された。
- 劉康 (済南王) : 後漢の世祖光武帝(劉秀)と郭聖通(光武皇后)との間の子、東海恭王の劉彊・沛献王の劉輔・楚厲王の劉英・顕宗明帝(劉陽/劉荘)の弟、東平憲王の劉蒼・阜陵質王の劉延・広陵思王の劉荊・臨淮懐王の劉衡・中山簡王の劉焉・瑯琊孝王の劉京の兄、簡王の劉錯・東武城侯の劉徳・西平昌侯の劉昱・某侯の劉篤の父。済南王に封じられ、法律を犯して侫臣の顔忠(顔中)[1]・劉子産[2]らと密着して、謀反を企てた廉(かど)で、異母兄の明帝から領土を削り取られた。さらに甥の粛宗章帝(劉煊/劉烜/劉炟)からも5県を削り取られた。亡くなるまで奢侈な生活を過ごして、臣下の諫言を採り下げていた。「安王」と謚された。
- 劉庾 : 別名は劉康。上記の章帝の6世の孫、河間孝王(清宗穆帝)の劉開の玄孫、恵王の劉政の曾孫、貞王の劉建の孫、安王の劉利[3]の子、某王(魏の崇徳侯)の劉陔の弟、某王の劉贇の父。済南王に封じられた。
- 劉康 (山陽公) : 後漢の最後の皇帝の愍帝[4](劉協)の孫、太子劉某[5]の子、劉瑾の父、劉秋の祖父。父が早世したために、234年春に55歳で逝去した祖父の後を継ぎ、魏の山陽公となった。
- 劉衷 : 別名は劉康。トルコ系匈奴屠各部攣鞮(虚連題)氏族の王朝である趙漢の烈宗昭武帝の劉聡(劉戴)の子、河間王の劉易・河内王の劉粲(少主隠帝)・彭城王の劉翼・高平王の劉悝・勃海王の劉敷・河南王の劉驥・燕王の劉鸞・楚王の劉鴻・斉王の劉勱・秦王の劉権・魏王の劉操・趙王の劉持・呉王の劉逞・潁川王の劉朗・零陵王の劉皋・丹陽王の劉旭・蜀王の劉京・九江王の劉坦・臨川王の劉晃の弟、東平王の劉約の兄。会稽王に封じられるが、父が没して次兄の劉粲が即位すると、権力を把握した外戚の靳準によって、他の兄弟とともに皆殺しにされた。
- 劉康 (五胡十六国) : 上記の趙漢の世祖昭烈帝の劉曜の落胤と自称した西域出身の胡人で、出自と民族は不詳。平陽郡で蜂起して、自ら晋王、あるいは漢王(晋漢王)と称した。夏4月に、チベット系氐の前秦の宗室である左衛将軍の苻飛が討伐に向かうと、劉康はこれを迎撃するも敗れて、捕虜された。以降の消息は不詳である。