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劉悝

渤海王の劉悝

劉悝(りゅうかい、? - 172年)は、後漢の皇族。粛宗章帝(劉煊/劉烜/劉炟)の曾孫、河間孝王(清宗穆帝)の劉開の孫、平原崇王(烈宗崇帝)[1]劉翼の子、威宗桓帝劉志)の弟、平原王の劉碩の兄、劉某の父。

概要[]

はじめは、父の後を継いで蠡吾侯となった。しかし、従父である渤海孝王の劉鴻(質帝(劉纘)の父)に嗣子がないために、養子としてその爵位を相続した。

165年に謀反を企んだ廉で官吏に追及された。しかし、兄の桓帝は弟を厳罰するのに忍びず、定陶王(廮陶王)に移封する程度にとどめた。

後に宦官である中常侍の王甫の仲介を得て、渤海王の復帰に功したため、王甫は劉悝からその報酬を受け取る予定であった。

しかし、167年に桓帝が逝去する直前に、弟の渤海王の復帰を言及する遺言をしたため、劉悝は自身が渤海王に復帰できたのは王甫の仲介の手柄でないと判断して、その報酬を無効とした。

はたして、王甫は劉悝を恨み始め、同じ宦官で中常侍の曹節とともに劉悝の罪状を探り始めた。そのうちに劉悝が兄の後を継いだ従子の霊帝劉宏)に不満を持ち、中常侍の鄭颯と中黄門の董騰らによって擁立された報を得ると、司隷校尉の段熲に密告した。これを受けて段熲は霊帝に劉悝の謀反を告訴した。

172年に、劉悝は逮捕投獄され、王甫の執拗な拷問を受けた挙句に、死を賜り自決を遂げた。さらに王甫らは劉悝の太子や妃妾ら70余人を処刑したのである。

脚注[]

  1. 後に都郷侯~蠡吾侯に降格された。

関連項目[]

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