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劉欣(りゅうきん)とは、の皇族・宗室かつ宗族。約6名ほど存在する。「劉訢」とも表記される。

  1. 劉欣 (運平侯)高祖劉邦の玄孫、斉悼恵王の劉肥の曾孫、城陽景王の劉章の孫、共王(恭王)の劉喜の子、頃王の劉延・雷侯の劉稀・東莞侯の劉吉・辟節侯の劉壮・利郷康侯の劉嬰・有利侯の劉釘・東平侯の劉慶の弟、山州侯の劉齒・海常侯の劉福・鈞丘侯の劉憲・南城侯の劉貞・広陵常侯の劉表・荘原侯の劉皐の兄。運平侯に封じられた。
  2. 劉欣 (陵郷侯) : 梁敬王の劉定国の子、夷王の劉遂・貰郷侯の劉平・楽侯の劉義・中郷侯の劉延年・鄭頃侯の劉罷軍・黄節侯の劉順・平楽節侯の劉遷・菑郷釐侯の劉就[1]・東郷節侯の劉方の弟、溧陽侯の劉欽・釐郷侯の劉固・高柴節侯の劉発・臨都節侯の劉未央・高質侯の劉舜の兄。陵郷侯に封じられた。
  3. 劉欣 (荼陵侯)成祖景帝(劉啓)の孫、長沙定王の劉発の子、戴王(康王)の劉庸・安城思侯の劉蒼・冝春侯の劉成・句容哀侯の劉黨・容陵侯の劉福・路陵侯の劉童・攸輿侯の劉則の弟、建成侯の劉拾・安衆康侯の劉丹・葉平侯の劉喜・夫夷敬侯の劉義・舂陵節侯の劉買・都梁敬侯の劉定・洮陽靖侯の劉狩燕・衆陵節侯の劉賢の兄、劉某の父。荼陵侯に封じられて、「節侯」と諡された。
  4. 劉欣 (共楽侯)中宗宣帝の劉詢(劉病已)の孫、淮陽憲王の劉欽の子、文王の劉玄の弟、外黄侯の劉圉・高陽侯の劉並・平陸侯の劉寵の父。はじめは楽平侯に封じられて、後に共楽侯に転封された。
  5. 劉欣 (定陶王)哀帝 (漢) : 前漢の第12代目の皇帝。高宗元帝(劉奭)の孫、定陶共王(恭王)の劉康の子。父が早世したため、4歳で定陶王となる。後に嗣子がなかった伯父の統宗成帝(劉驁)の皇太子(皇太甥)となる。伯父が逝去すると後を継いで、男色相手の董賢を寵愛した。その一方、外戚の王崇王莽の叔父)の呪詛の行為を激しく糾弾した。さらに丞相である朱博・王嘉を粛清するなど専制君主ぶりを見せた。しかし、嗣子がないまま27歳の若さで逝去した。彼が亡くなると寵臣の董賢は王莽一族によって、解任され夫婦揃って自決に追い込まれた。
  6. 劉欣 (晋)(西晋)の部将。上記の城陽景王の劉章の後裔と伝わり[2]の琅琊郡太守の劉謨の子、劉某の父。城陽郡黔陬県[3]の人。匈奴中郎将・鷹揚将軍・并州刺史を歴任した。

脚注[]

  1. 劉逢喜(三国時代の数学者の劉徽の遠祖(呉文俊著『中国数学史大系』第三巻第一章『劉徽簡伝』より))の父。
  2. 『大司農鄭舒夫人劉氏墓誌』
  3. 現在の山東省濰坊市高密県