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劉章(りゅうしょう)とは、の皇族・宗室かつ宗族および非皇族。約7名ほど存在する。

  1. 劉章 (城陽王)高祖劉邦の庶長孫、斉の悼恵王の劉肥の嫡長子、哀王の劉襄の弟、済北厲王の劉興居[1]・菑川懿王の劉志[2]・済南王の劉辟光[3]・菑川王の劉賢[4]・膠西王の劉卭[5]・膠東王の劉雄渠[6]・管共侯の劉罷軍・瓜丘共侯の劉寧国・営平侯の劉信都・楊丘共侯の劉安の兄、共王(恭王)の劉喜の父、頃王の劉延の祖父。はじめは朱虚侯に封じられて、趙王の呂禄(呂后(呂雉)の甥)の娘を娶った。前181年に呂后の前で、呂氏を諷刺した剣舞を舞うが、呂氏一族のひとりが宴席から勝手に中座しようとしたため、これをを斬り捨て、呂后に向かって、「軍法に従い、これを処刑いたしました」と述べ、彼女は彼を不問にした。このとき21歳だった。翌年秋7月に呂后が逝去すると、兄の劉襄とともに呂氏一門の討伐に動き、太尉の周勃の命で梁王の呂産(呂禄の従兄弟)を討ち取った。この戦功で城陽王に封じられた。前177年に25歳の若さで逝去し、「景王」と謚された[7]
  2. 劉章 (東野侯)成祖景帝(劉啓)の孫で、中山靖王の劉勝の子、哀王の劉昌・広望節侯の劉忠・将梁侯の劉朝平・薪館侯の劉未央・陸城侯の劉貞(劉真)・薪処侯の劉嘉・陸地侯の劉義・臨楽敦侯の劉光の弟、高平侯の劉喜・広川侯の劉頗・乗丘節侯の劉将夜・高丘哀侯の劉破胡・柳宿夷侯の劉蓋・戎丘侯の劉譲・樊輿節侯の劉脩・曲成侯の劉万歳・安敦于侯の劉伝富・安険侯の劉応・安道侯の劉恢・澎侯の劉屈氂の兄、劉某の父。東野侯に封じられて、「戴侯」と諡された。
  3. 劉章 (紅侯) : 前漢の楚元王の劉交[8]の玄孫、紅懿侯の劉富の曾孫、懐侯の劉登の孫、敬侯の劉嘉の子、劉龔の父。「哀侯」と諡された。
  4. 劉章 (南郷侯) : 長沙定王劉発(景帝の第7子、世宗武帝の異母兄)の後裔で、順陽節侯の劉憲の玄孫、懐侯の劉嘉の曾孫、南郷侯の劉参の孫、劉循の子、劉某の父。
  5. 劉章 (斉王)後漢世祖光武帝劉秀)の甥で、斉武王の劉縯の子、北海靖王[9]劉興・汝陽恭敦王の劉彦[10]の兄、殤王の劉石・下博侯の劉張の父、煬王の劉晃(蕪湖侯)・都鄉侯の劉暢・利侯・劉剛兄弟と劉它人の祖父、恵王の劉無忌の曾祖父、頃王の劉喜の高祖父、某王の劉承の6世の祖。
  6. 劉章 (常山王) : 後漢の顕宗明帝(劉陽/劉荘)の孫、常山質王の劉昞の子、殤王の劉側の兄、頃王の劉儀の父、節王の劉豹の祖父、劉暠の曾祖父。「靖王」と諡された。
  7. 劉章 (宋)南宋の官僚。字は文孺。衢州竜游鎮[11]の人。永安劉氏の当主である劉天牧の孫、劉浩の子、劉某の父。官位は礼部尚書・資政殿学士に至った。81歳で逝去し、光禄大夫に昇格され、「靖文公」と諡された。

脚注[]

  1. はじめは東牟侯、文帝の代に謀反を起こし、誅殺された。
  2. はじめは安都侯、後に済北王と改封された。
  3. はじめは勒侯。
  4. はじめは武成侯。
  5. はじめは昌平侯、劉徳の父。
  6. はじめは白石侯。
  7. 劉章の逝去後に城陽国内では、彼を祀る祠が数多く建立され、多くの信仰を集めた。後漢末に、青州で未だに劉章を祀る「城陽景王信仰」が根強かったため、済南郡の相として赴任したばかりの曹操太祖武帝)は、古来からの劉章を祀る宗教の信仰を視察した。宗教嫌いの曹操は、これが民衆の生活に支障をきたしていると判断して、すべての祠を全壊させ、古来からの祭祀を徹底的に廃絶させた(『魏書』武帝紀が引用する王沈の『魏書』より)。
  8. 字は游。高祖・劉邦の従弟、荊湣王の劉賈の異母弟。
  9. はじめは叔父の魯哀王の劉嬉(劉仲)の養子として、魯王に封じられた。
  10. 字は御筆。殤王の劉達の父。
  11. 現在の浙江省衢州市竜游県
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