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劉表(りゅうひょう)とは、の皇族・宗室かつ宗族。約2名ほど存在する。

  1. 劉表 (広陵侯) : 城陽景王の劉章の孫、共王(恭王)の劉喜の子、頃王の劉延・雷侯の劉稀・東莞侯の劉吉・辟節侯劉壮・利郷康侯の劉嬰・有利侯の劉釘・東平侯の劉慶・運平侯の劉欣(劉訢)・山州侯の劉齒・海常侯の劉福・鈞丘侯の劉憲・南城侯の劉貞の弟、荘原侯の劉皐の兄、劉某の父。広陵侯に封じられ、「常侯」と諡された。
  2. 劉表 (後漢) : 字は景升。山陽郡高平県[1]の人。前漢の魯共王(恭王)の劉余劉餘)の庶子である郁桹侯の劉驕の系統である高平侯の庶家出身で[2]劉琪(劉琦)・劉琮の父、劉脩(劉修)[3]の伯父、劉延(劉磐)・劉虎の従父[4]で、後漢末の天文学者の劉洪(字は元卓)と蜀漢()の劉琰とは同族という。190年に前任の荊州刺史の王叡[5]袁術配下の孫堅烈祖武帝)に討たれると、その後任の荊州牧となり、成武侯に封じられた。腹心の蔡瑁・蒯越[6]・蒯良[7]と計らって、袁紹(袁術の異母兄)と組んで、袁術・孫堅と対決した。さらに荊楚地方の土豪の反乱を鎮圧して、荊州北部・中部を支配下に治めた。191年には部将の呂公に命じて、孫堅を討ち取らせている。その後は中立に徹して、曹操の介入を防ぎ、曹操に追われた遠縁筋の劉備を客将として迎えた。後に同盟した袁紹の庶長子の袁譚が曹操との戦いに援軍を求めたが、劉備の進言で婉曲的にこれを断った。彼は8尺(約176㎝)もあり、儒者・文人として有名で「八俊」「八交/八顧」「八友」の一人であった。晩年は劉備を遠避けて、正室の陳氏が産んだ長子の劉琪を江夏郡太守として左遷させ、側室が産んだ庶子の劉琮を後継者に定めて、67歳で逝去した[8]陳寿は「劉表は、漢の宗族で表面的には寛容であったが、内面は謀略を好み猜疑心が強く、優柔不断のところがあった。また、(劉備など)優秀な人材を要職に就かせず、冷遇した。さらに長子の劉琪を疎んじて、これ廃嫡にして辺鄙に左遷し、庶子の劉琮を後継者にしたことは、儒教の礼に背くことになり、彼の逝去後に自らの不幸を招いたこととはいえないであろう」と、これを批評している。日本でいえば、武田信玄に相応する人物といえよう。

脚注[]

  1. 現在の山東省済寧市魚台県東北
  2. 『後漢書』劉表伝
  3. 字は季緒。劉表の弟の子。官職は東安郡太守に至った。詩・賦・頌六篇を著し、同時に楊脩(楊修)の文作を批判した(『魏書』陳思王植伝)。
  4. 劉表の従兄弟の子。
  5. 瑯琊王氏出身で、王駿の5世の孫、王崇の玄孫、王遵の曾孫、王音の孫、王仁の子、王誼の弟、王典・王融(王祥・王覧の父)の兄(『晋書』王祥伝)。
  6. 房陵郡太守の蒯祺の族父。
  7. 蒯越の従子、蒯鈞(蒯欽)の祖父、蒯祺の従兄。
  8. 65歳の説もある。
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