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劉賢(りゅうけん)とは、の皇族・宗室・宗族および非皇族。約8名ほど存在する。

  1. 劉賢 (呉の太子) [1] : 字は徳明[1]高祖劉邦の従孫で、代の頃王の劉喜劉仲)の孫、呉の厲王の劉濞の長子、劉駒(子駒)・劉華(子華)の兄、劉達の父。呉の太子として、年齢が近い従父の太宗文帝(劉恒)に謁見して、年齢が離れた又従弟の太子劉啓(後の成祖景帝)と朝廷内で双六をして諍いを起こした。激怒した劉啓が双六の盤台を投げつけて、劉賢は即死した。このことに激怒した父の劉濞は参内を拒んだ。しかし、太子の父である文帝は、従兄の劉濞に対して、わが子が族子の劉賢を殺害したことを詫びて「高齢ゆえに参内は免除する」旨を伝えた。しかし、これが後年の『呉楚七国の乱』の引き金となった。「悼太子」と謚された。
  2. 劉賢 (シ河王) : 劉邦の孫で斉の悼恵王の劉肥の庶子、哀王の劉襄・城陽景王(朱虚侯)の劉章・済北厲王(東牟侯)の劉興居・菑川懿王(安都侯/済北王)の劉志・済南王(勒侯)の劉辟光の弟、膠西王(昌平侯)の劉卭・膠東王(白石侯)の劉雄渠・管共侯の劉罷軍・瓜丘共侯の劉寧国・営平侯の劉信都・楊丘共侯の劉安の兄、劉某の父。はじめは武成侯に封じられ、前164年に菑川王に封じられた。前154年に従父である呉の厲王の劉濞に呼応して、兄の済南王・劉辟光、弟の膠西王・劉卭(昌平侯)と膠東王・劉雄渠(白石侯)とともに反乱を起こしたが、従兄弟の景帝が派遣した周亜父(功臣の周勃の次男)に鎮圧されて、追い詰められて自決を遂げた。
  3. 劉賢 (衆陵侯) : 景帝の第7子である長沙定王の劉発の子、戴王(康王)の劉庸・安城思侯の劉蒼・冝春侯の劉成・句容哀侯の劉黨・容陵侯の劉福・路陵侯の劉童・攸輿侯の劉則・荼陵節侯の劉欣(劉訢)・建成侯の劉拾・安衆康侯の劉丹・葉平侯の劉喜・夫夷敬侯の劉義・舂陵節侯の劉買、都梁敬侯の劉定・洮陽靖侯の劉狩燕の弟、劉某の父。衆陵侯に封じられて、「節侯」と諡された。
  4. 劉賢 (膠東王) : 景帝の第12子である膠東康王の劉寄の子、六安恭王の劉慶・皐虞煬侯の劉建・魏其煬侯の劉昌・祀茲侯の劉延年の兄、戴王の劉通平の父、世宗武帝(劉徹)の甥。「哀王」と謚された。
  5. 劉賢 (安定侯) : 武帝の第3子である剌王の劉旦の次子、広陽頃王の劉建の弟、新昌節侯の劉慶の兄。「戻侯」と謚された。
  6. 劉賢 (後漢) : 別称は「劉延」。漢の宗族である後漢末の零陵郡太守の劉度の子。209年に父とともに遠縁筋の劉備に降伏した。
  7. 劉賢 (曹魏) : おそらく漢の宗族出身。の冗従僕射。中書令の李豊とともに、専横を極めた大将軍の司馬師と中領軍の司馬昭兄弟の暗殺計画を目論んだが、露見されて一族皆殺しの刑を受けた。
  8. 劉賢 (明)の官吏で、科挙に及第して進士となった。

脚注[]

  1. 1.0 1.1 後漢の荀悦著『漢紀』および『資治通鑑』が引用する胡三省の注釈による。

関連項目[]

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