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塩松 義仲(しおまつ よしなか)とは、斯波氏奥州源氏)流下野石橋氏一門の塩松氏の武将。「石橋義仲」とも呼ばれる。約2名ほど存在する。

  1. 塩松義仲 (塩松義衡の子)陸奥国塩松城(四本松城)を統治した塩松氏の当主の塩松義衡(義平)の子、家博の弟、義次の父、義久の祖父。
  2. 塩松義仲 (塩松家博の子) : 上記の塩松家博の子、義継の父。永享12年(1440年)の『結城の戦い』の際に、惣領家の足利将軍家足利義教が陸奥国や出羽国の国人に出兵命令を出したが、義仲はこれに応じず、叱責を受けた。また、長禄3年(1459年)に、義教の子である堀越足利家(堀越公方)足利義知(政知)が、一族の古河公方の足利成氏に大敗して、異母兄の義知を支援していた足利将軍家の足利義政から成氏追討の御教書が出されたが、義仲以外誰も応じず、義仲自身も出兵が遅れたため、再び叱責を蒙った。

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