士燮(ししょう、越語:Sĩ Tiếp/Sĩ Nhiếp、136年/137年[1][2] - 226年)は、後漢末の部将・政治家。字は威彦。士賜の子、士壱・士䵋・士武の兄、士廞・士祗・士徽・士幹・士頌の父、士陸・士漆・士捌の祖父[3]。
彼は後漢の朝廷から半ば独立した政権を保ち、華南(広東・広西)地方・ベトナム北部の紅河デルタ付近のタインホア地域までの広大な支配地に影響をもった[4]。
概要[]
蒼梧郡広信県[5]の人であるが、原籍は魯郡汶陽県[6]である。その祖先は春秋時代の晋[7]の公族である祁氏一門で、新の王莽の支配を見限って南方に移住して、本籍を変更した[1]。
士氏は蒼梧郡に定着して勢力を拡大し、士燮の父の士賜は日南郡太守に任じられた[8]。
士燮は若き日に洛陽に遊学して、穎川郡の人の劉陶に師事して『春秋左氏伝』を学んだ[8]。士燮は茂才(孝廉)に挙げられて郎中を経て尚書郎となるが、朝廷内の権力争いに巻き込まれて罷免された[8]。後に父の死後に南郡巫県の令として赴任した[8]。
184年ごろ交州刺史の賈琮の推挙によりに交阯郡太守となった[4]。196年ごろに[9]楊州牧の劉繇[10]の客将で梟雄の笮融によって豫章郡太守の朱皓(朱儁の子)が殺害されると、その兄の交州刺史の朱符(朱浮)[11]は、配下の劉彦を派遣して、弟の仇討ちを実施するがその途中の荊州各郡の太守が朱符を疑って通してくれないために、おなじく配下の牟氏を派遣して各太守を説得させようとした。しかし、その頃たまたま牟氏の生母が死去したため、彼が喪に入ったので実現せず[12]、まもなく朱符は今まで苛政を行なった代償として反乱を起こした交州の民衆によって殺害され、交州は大混乱に陥った[1]。それを聞いた士燮はこの混乱を収拾するため、弟の士壱を合浦郡太守に、士䵋を九真郡太守に、士武を南海郡太守にすることを朝廷に上奏して認められ[13]、士氏の勢力は交阯・合浦・九真・南海郡などに拡大された[14]。
数年後に仇敵である辺譲を誅殺した魏の曹操の命で、交州に避難した指名手配者である袁忠・桓邵[15]らを殺害して、その首級を曹操に元に送った[16]。曹操は、その後に上奏して南陽郡の人である張津[17]を交州刺史として赴任させたが、この張津も前任の朱符同様に苛政を行なったために、荊州牧の劉表[18]と争いながら、203年に家臣の区星(區景)に暗殺された。同時期に蒼梧郡太守の史璜も病没したため、区景は自ら蒼梧郡太守と称した。これを聞いた士燮は区景を討ち滅ぼして、実質上の交州刺史としての実権を握った。
張津が死亡する以前の200年に、長沙・武陵・零陵郡をすでに支配下に収めた劉表は交州への進出を図り、部将の頼恭を交州刺史に、呉巨を蒼梧郡太守に任命した[19]。
劉表と対立していた曹操は、殺害された張津の後釜として恩義がある士燮を綏南中郎将の地位を与えて交州七郡の総督を命じて、士燮は朝廷に貢納を続けて関係を維持し続けた[19]。
210年に呉の孫権が部将で縁戚でもある歩騭を交州に派遣すると、士燮は孫権に降伏した。長子の士廞を人質として孫権の元に送り、士廞は武昌郡太守に、他の士燮の子と士壱の子には中郎将の地位が与えられた。
また、士燮は蜀漢(蜀)の劉備の支配下にあった益州南部[20]を支配した雍闓[21]と孟獲を孫権の勢力に引き込む仲介役を務めた[22]。
益州南部への干渉の後、士燮は衛将軍に昇進して、龍編侯に封じられた。226年に士燮は91歳で没して、その死後、士氏の勢力は急速に衰退することになった[23]。
士燮の墓は広西壮族自治区梧州市蒼梧県とベトナム北部のバクニン省トゥアンタイン県の2か所に建てられ、バクニン省トゥアンタイン県に建立された士王祠では士燮の祭祀が行なわれている[24]。
その政策と後世の評価[]
士燮はドゥオン川南岸のルイラウに首府を置き、城内には河川から水路が引かれていた[25]。従来の朝廷から北ベトナムに派遣された漢人の支配者と異なり、ベトナム北部に定着した士氏の支配はおなじく定着した漢人支配層と古代ベトナム人の民衆の両方から支持を獲得して、朝廷の混乱の影響もあり、長期に及ぶ支配が成立した[26]。士燮は東南シナ海の南海交易によって利益を得て、ベトナムの特産品や輸入品を朝廷や呉に貢納した[27]。士燮が官庁に出入りするときには楽器が鳴らされて香が焚かれ、士燮の後に続く行列の中には交易に携わっていたと考えられる胡人(インド人など)商人も含まれていた[4][28]。銅鼓の文様が施された青銅洗(盆)は、士燮時代のベトナムの出土品に見られる特徴である[2]。
士燮の寛容な統治はベトナムの民衆に受け入れられ[29]、政情が安定した交趾には戦乱を避けて多くの漢人が移住し[14]、交趾郡に逃れた漢人の中には曹操の指名手配を受けた上記の袁忠・桓邵・辺譲をはじめとして、その他の袁徽・程秉・薛綜・許靖・劉巴らの名士も含まれていた。士燮は交趾に逃れた学者・知識人に保護を与えて、現地の越人(古代ベトナム人)の教育に力を注いだ[30]。こうした政策から、士燮はベトナムにおける漢文化の影響力の拡大に大きな役割を果たしたという[30][31]。しかし、ベトナムにおける漢化・儒教政策を実施した記録は後世の史料のみに現れる点より、士燮をベトナムの漢化奨励者とする観点を疑問視する意見もある[31]。中世ベトナムの史家の中には士燮をベトナムに初めて漢字を導入した人間と比定する人物もいるが、士燮の時代より前に既にベトナムで漢字が使用されていたという意見は多い[29]。
交趾郡に移住した汝南郡(あるいは陳郡)の人の袁徽は尚書令の荀彧に宛てた手紙の中で、士燮の高い学識と統治手腕を評価して、王莽の新から後漢初期にかけて河西地方を支配していた竇融と比較される人物と称賛した[32]。南越の建国者である漢人の趙佗[33]は中央政権の衰退に乗じて独立政権を築きし、学識を有する点で士燮と共通するため、しばしば比較の対象に挙げられる[34]。『三国志』の著者である陳寿は、士燮を趙佗以上の人物だと評価した[35]。4世紀に葛洪著『神仙伝』には、一度死んだ士燮が仙人の董奉から与えられた丸薬によって蘇生する逸話が収録されている。14世紀のベトナムで編纂された『越甸幽霊集』には、士燮が没してからおよそ160年後にベトナム南部のチャンパ王国の兵が彼の墓を暴いた時に死体は生前と変わらない姿をしていたという伝説が収められており、この伝説は『神仙伝』のエピソードが下敷きになったと考えられている[36]。
後世のベトナムの人間からは士王(シー・ヴォン)と呼ばれて敬愛され[29][37]、13世紀の陳朝の時代には「嘉応善感霊武大王」に追封された[38]。士燮が没してから書かれた『三国志』に生前の士燮が王と称されていた記述は存在せず、陳寿が士燮を南越の王・趙佗と比較したため、後世のベトナムで「士王」の称号が生まれたと考えられている[39]。
『大越史記全書』の編者である呉士連ら史家により、18世紀まで士燮はベトナムの正統な王と見なされていた[2]。西山(タイソン)朝の史家である呉時仕は、士燮の官職と事績を北属期の他の漢人統治者と比較して、従前のベトナムで受け容れられていた士燮の伝説的な事績を否定して、彼を「王」として特別視することはなく『大越史記全書』から「士王紀」を削除した[40][41]。しかし、1945年の『ベトナム八月革命』まで使用されていた漢文教育用の教科書にはベトナムの儒教化者である士燮像が記載され、「士王」の印象は20世紀に至るまで民衆の間に残り続けた[42]。クオック・グー(越南文字)の普及と漢文教育の衰退に伴って士燮の名前は教科書から消えてしまい、2005年に改訂されたベトナムの歴史教科書には士燮の政策についての記述は存在していない[43]。
脚注[]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 狩野『アジア歴史事典』4巻「士燮」、159頁
- ↑ 2.0 2.1 2.2 宇野『ベトナムの事典』「シー・ニエップ」、155-156頁
- ↑ 『元本』(『元大徳九路本十七史』)
- ↑ 4.0 4.1 4.2 桜井『原史東南アジア世界』「南海交易ネットワークの成立」、121-124頁
- ↑ 現在の広西壮族自治区梧州市蒼梧県
- ↑ 現在の山東省曲阜市北東部
- ↑ 元来が古代トルコ系の翟(北狄)の狐氏が、母方の唐の姓である姫(あるいは嬛)と改称して、周王室の一族化した家系である。
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 後藤『ベトナム救国抗争史』、152頁
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、153頁が引用する『大越史記全書外紀三』より。
- ↑ 斉孝王の劉将閭(別称は劉将盧、高祖の劉邦の曾孫、悼恵王の劉肥の孫、哀王の劉襄の次子、文王の劉則の異母弟)の末裔。
- ↑ 梁代の『弘明集』「理惑論」による。
- ↑ 『呉書』士燮伝・薛綜伝より。
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、153-154頁
- ↑ 14.0 14.1 後藤『ベトナム救国抗争史』、154頁
- ↑ 春秋時代の斉の桓公の後裔である沛郡桓氏の一族で、族兄弟の後裔に楚斉を建国した桓玄がいる。
- ↑ 袁忠・桓邵・辺譲らは190年に反董卓を結成して挙兵した曹操の従弟の曹邵こと曹紹(曹真の父)を殺害している(『魏書』武帝紀)。
- ↑ 張羨とも、字は子雲。
- ↑ 魯共王の劉余の後裔。
- ↑ 19.0 19.1 後藤『ベトナム救国抗争史』、157頁
- ↑ 西晋の時代になると、益州から分岐して寧州となる。
- ↑ 梓潼郡(現在の四川省綿陽市梓潼県)の人で、前漢の什仿(什邡)粛侯の雍歯の後裔で、主簿の雍茂の族兄弟にあたる(『元本』)。
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、158頁
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、169-170頁
- ↑ 川手『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊「ベトナムの教化者たる士燮像の形成過程」、141・155頁
- ↑ 桜井由躬雄『東南アジア史1 大陸部』「紅河の世界」収録(石井米雄・桜井由躬雄編/世界各国史/山川出版社/1999年)、121-124頁
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、166-167頁
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、168頁
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、155-156,168頁
- ↑ 29.0 29.1 29.2 小倉『物語 ヴェトナムの歴史』、36-37頁
- ↑ 30.0 30.1 川本『ベトナムの詩と歴史』、83-84頁
- ↑ 31.0 31.1 川手『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊「ベトナムの教化者たる士燮像の形成過程」、141頁
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、155頁
- ↑ 趙の趙桓子(趙嘉)の後裔で、趙雲・趙範と同族(『元本』)。
- ↑ 川本『ベトナムの詩と歴史』、83頁
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、157頁
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、179-180頁
- ↑ 川本『ベトナムの詩と歴史』、82頁
- ↑ 川手『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊「ベトナムの教化者たる士燮像の形成過程」、145頁
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、177-178頁
- ↑ 後藤『ベトナム救国抗争史』、187-189頁
- ↑ 川手『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊「ベトナムの教化者たる士燮像の形成過程」、143頁
- ↑ 川手『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊「ベトナムの教化者たる士燮像の形成過程」、147-148頁
- ↑ 川手『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊「ベトナムの教化者たる士燮像の形成過程」、156頁
参考文献[]
- 『ベトナムの事典』収録「シー・ニエップ」(宇野公一郎/同朋舎/1999年)
- 『物語 ヴェトナムの歴史』(小倉貞男/中公新書/中央公論社/1997年)
- 『アジア歴史事典』4巻収録「士燮」(狩野直禎/平凡社/1960年)
- 『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊収録「ベトナムの教化者たる士燮像の形成過程」(川手翔生/早稲田大学大学院文学研究科/2013年)
- 『ベトナムの詩と歴史』(川本邦衛/文芸春秋/1967年)
- 『ベトナム救国抗争史』(後藤均平/新人物往来社/1975年)
- 『原史東南アジア世界』収録「南海交易ネットワークの成立」(桜井由躬雄/岩波講座 東南アジア史1/岩波書店/2001年6月)