日本通信百科事典

大井田氏経

大井田氏経の肖像(菊池容斎『前賢故実』)

大井田 氏経(おおいだ うじつね、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。大井田氏越後源氏)の当主の大井田経隆の子、経兼[1]の弟、羽田経世[2]の兄、経景・大岡経重(越後大岡氏の祖)の父。

概要[]

大井田氏は、新田氏上野源氏)流源姓里見氏一門の上野大島氏の庶家で、越後国中魚沼郡大井田郷[3]を拠点とした。

氏経は正慶2年/元弘3年(1333年)に父の経隆に随伴して、兄の経兼と弟の経世とともに、惣領家の新田義貞 に従った。氏経は一族とともに鎌倉の化粧坂に攻めよせて、北条得宗家を攻め滅ぼした(『元弘の乱』)。

やがて、後醍醐天皇によって建武政権が成立すると、氏経は式部大夫に任じられ、ついで弾正少弼に転じている。その後、『中世代の乱』が始まると、氏経は『箱根の戦い』・『第一次京都の防戦』と、義貞率いる軍中にあって各地を転戦した。

延元元年(1336)4月、義貞は赤松則村(円心入道)が籠城する播磨国白旗城を攻めた。しかし、陥落できずに、西方にある備前国三石城・備中国福山城・備後国靹尾浦城などが、同族の足利氏下野源氏)の棟梁の足利尊氏高氏)方の城砦が配置されており、戦局は芳しくなかった。そこで、義貞は氏経を将として、船坂峠を軍事占領して、三石城を攻略し、さらに周辺の城砦群を奪取つることを命じた。

しかし、船坂峠はすでに三石城には足利氏一門の斯波氏奥州源氏)の庶家である下野石橋氏の当主の石橋和義が占拠していた。これに対して、氏経らは策をもって敵と戦い、義貞の弟の脇屋義助の軍勢が船坂峠を攻め、氏経の軍勢は三石城の城下に迫り、城兵の出撃を阻止した。その結果、氏経らは船坂峠を占領し、備前国に侵入していった。勢いにのった氏経の軍勢は備中国にまで攻め入り、足利方の飽浦信胤・田井信高らが籠城する福山城も攻め落した。その一方、美作国に攻め込んだ新田氏一門の江田行義の軍勢もたちまち美作国を制圧し、播磨・備前・備中・美作の4ケ国は新田軍の制圧下に入った。しかし、義貞が包囲している白旗城はなかなか陥落せずに、脇屋義助の攻撃する三石城も、ついに陥落しなかった。

このように、白旗・三石両城の攻略に新田軍が手を焼いているとき、足利尊氏は九州の地で着々と軍を再編成し、ついに上洛を開始した。尊氏は水軍を率い、弟の足利直義高国)は陸路を進撃した。いずれも大兵力であった。この報に、義貞は足利方の大軍を播磨国で迎え撃つことをためらい、軍を引き返して湊川で、楠正成とともに迎え撃つことにしたのである。このとき、氏経は福山城にあり、直義の軍勢に対して一戦をしてから退くことに決して、城を空に見せる策をとり城内ことごとく物音を伏せた。

これに対し、直義はあまりにも静かな城を見て、氏経の軍勢はすでに落ちたものとして、城を包囲したまま安心して入城した。そして、翌日に安心しきった直義軍はてんでばらばらの体で福山城に向かった。これをみて、氏経の軍勢は直義の軍勢に対して矢を射かけ、あわてふためく直義の軍勢のなかに騎馬武者が突出した。一瞬にして勝負は決まり、直義の軍勢は散々に打ち破られた。これをみて氏経は退き太鼓をうたせ麾下の兵を集結させると、播磨国方面に馬を向け、 無事に新田本軍へと帰陣した。

その直後、白旗・三石城の包囲は解かれ、義貞と正成は全軍を挙げて、足利勢の湊川上陸を阻止することになった。しかし、湊川の戦いは大敗北であり、正成は戦死し、義貞は京都に向かって敗走した。その後、足利尊氏・忠義兄弟の軍勢は新田勢を京都から追い払い、義貞は越前国金ケ崎城に籠城し、そこも足利方に包囲された。しかし、城内に氏経の姿はなかった。

延元3年(1338年)6月ごろ、義貞は越前国丸石城にあり、再上洛を試みた。そして、越後国魚沼郡波多郷にあった氏経に兵を率いて馳せ参じるように命じた。氏経は2万余の兵を率いて、越後国を発し越中国に侵入し、足利方の普門俊清の軍勢を撃破して、富樫高家(藤原北家利仁流)の軍勢を撃退した。そして新田本軍に合流しようとした。ところが、同年7月に、藤島の灯明寺畷で義貞が戦死を遂げた訃報が届いた。新田本軍は散り散りになり、新田軍の上洛戦は夢と消えた。この悲報が氏経の軍勢に届くと、たちまち2万の軍勢は離反してしまい一気に数千騎に減ってしまい、止むを得ず氏経は越後国へと帰っていった。

その後、氏経は義貞の子の義宗を擁立し、城砦を築きあくまでも南朝方を貫こうとした。これに対して、室町幕府は信濃国守護の小笠原貞宗(信濃源氏)に軍令を発し、同じころに関東管領上杉憲顕も坂東八ヶ国の麾下に出撃の下知を下し、みずからも大軍を率いて鎌倉を発した。

翌延元4年(1339年)年5月、幕府方は攻撃を開始し、その大軍を前に新田方の城砦はつぎつぎと落城していき、ついに氏経が守る大井田城のみが残った。氏経は連日連夜の猛攻をよく防ぎ、落城の気配は示さなかった。このとき、幕府方に一つの噂が飛んだ。惣領家の義宗はすでに城内にいないというもので、義宗を討たなければ軍功にはならない、ということで攻撃がとまった。そして、引き揚げていった。こうして大井田城は落城を免れた。

このように氏経は、惣領家に対して節義を貫き通した。しかし、隣接する波多野・上田・妻有などの三郷は、戦乱による掠奪のあとの荒廃だけが残り、幕府方に完膚なきまでに叩かれたのである。

以降の氏経の消息は不詳である。

脚注[]

  1. 兼経の父、光兼の祖父、義兼の曾祖父、頼継の高祖父、光継の6世の祖、義勝の7世の祖。
  2. 読みは「つねつぐ」「つねとき」「つねとし」、時房(義政)の父。
  3. 現在の新潟県十日町市大井田地区
先代:
大井田経隆
大井田氏第4代当主
-
次代:
大井田経景