大和源氏(やまとげんじ)とは、陽成源氏頼親流を中心とする系統で、約4系統ほど存在する[1]。摂津源氏とは同族で、中には河内源氏の系統もある。
- 久留野氏 : 大和源氏の惣領家で、頼親の長子の頼成を祖とする。大和国宇智郡久留野庄(現在の奈良県五條市久留野町)を拠点とした。代々が太郎と称した。仔細は不詳であるが、ひっそりと在続していたようである。庶家に大和粟田口氏などがあった。
- 宇野氏 (源氏) : 大和宇野氏/源姓宇野氏とも呼ばれる。頼親の次子の頼房を祖とする。大和国宇智郡宇野庄(現在の奈良県五條市宇野町)を拠点として、宇野氏を称した。代々が次郎と称した。しかし、1049年(永承4年)に、当主の宇野頼房が、興福寺との間で抗争を起こし、多数の死者が出る結果となった。興福寺の訴えにより、父の頼親は次子の狼藉行為の責任を問われ、頼親は土佐国に頼房は隠岐国に流された[2]。こうして、宇野氏は没落していった。庶家に大野宇野家(朝日宇野家)・大和越智氏・摂津豊島氏[3]・岑田氏(峯田氏)などがあった。
- 福原氏 (源氏) : 摂津福原氏/源姓福原氏とも呼ばれる。頼親の第3子の頼遠・有光(師任)父子を祖とする。摂津国豊島郡福原庄(現在の大阪府豊中市)あるいは同国八部郡福原庄(現在の兵庫県神戸市兵庫区の北半分から中央区の西端付近あたり)を拠点として、福原氏と称した。代々が三郎と称した。以降は福原氏および奥州石川氏を参照のこと。
- 太田氏 (源氏) : 摂津太田氏/源姓太田氏とも呼ばれる。頼親の第4子の頼基を祖とする。摂津国嶋下郡太田庄(現在の大阪府茨木市太田大字)を拠点とした。代々が四郎と称した。
- 野長瀬氏(野長瀬河内家) : 義忠流河内源氏の武蔵河内氏(武蔵源氏)の系統で頼忠を祖とする。大和国吉野郡野長瀬郷[4]を拠点とした。庶家に横矢氏があった。