大岡忠賀(大賀弥四郎)
大岡 忠賀[1](おおおか ただのり/ただよし/ただより、? - 天正2年(1574年)/天正3年(1575年))とは、戦国時代の武士。通称は弥四郎。後世には大賀弥四郎と呼ばれるようになった[2]。大岡善吉(忠善[3]/伝蔵)の甥といわれる。
生涯[]
徳川信康(家康の嫡長子)に、一族の大岡正成・吉勝とともに仕えて、中間をつとめた。計算が得意なことから、会計租税の職に試用された後、三河国奥郡20余郷の代官に抜擢され、徳川父子から信頼を得た[4]。
しかし、政敵で遠縁筋の藤原北家利仁流の近藤利用(壱岐守/登之助)[5]が領地を加増されたとき、忠賀が自分の功績である誇張したため、利用は忠賀に追従してまで加増されたくはないと、領地の返上を申し出た。このことがきっかけで、家康は無条件に信頼した忠賀の日頃の悪行を耳にすることになり、自分を裏切ったと判断して忠賀は家康の命で免職されて、家財を没収された。
これを逆恨みした忠賀は同僚の小谷甚左衛門・倉知平左衛門・山田英重(八蔵)[6]らと共謀して、武田勝頼の武将の真田昌幸と内通した。しかし、昌幸の岡崎城乗っ取りの書状を持った武田氏(甲斐源氏)の密偵の医師の減敬(滅敬)[7]が、家康の重臣で義理の叔父でもある酒井忠次の命をうけた大久保忠世の家臣に捕らわれて、露見された。その減敬は忠次の命で信康の近侍である野中重政(三五郎)によって処刑された。
これを聞いて怖気づいてしまった山田英重は変心して、上記の利用とともに忠賀の謀反を家康に直訴した。忠次は家康に自分が忠賀の処分を総指揮すると願い出て、許可された。このため忠賀は忠次の命で馬に乗せられて浜松城下を曳き回しの挙句に、妻の於松をはじめ、4人の子が見せしめのために磔にされたのを見た後、岡崎城下で土に埋められ首を通行人に竹鋸で引かれ、7日後に死亡した。なお、小谷は甲斐国へ逃れ、倉知は大久保忠世配下で、同姓であるが血縁関係が皆無な大岡清勝[8]によって、米河内城攻めで討ち取られ、英重は千石を加増されたという。ただし、忠賀のふたりの娘は家康の恩情で助命されて、尼僧になったという。
この事変以降、家康は忠賀の行為で禍を及ぶと判断して、大岡氏一族に配慮して忠賀を大岡氏一族から排除して「大賀弥四郎」に改名させる扱いにしたという[2]。後世の北町奉行の大岡忠相は忠賀の従兄弟の忠勝(善吉の子)の後裔という。
脚注[]
関連項目[]
- 彭羕 : 忠賀と共通する人物。