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越王・句践の相があると謳われた孫権

孫権(そんけん、181年/182年 - 252年)は、『三国志』に登場する人物。字は仲謀太祖大帝(在位:229年 - 252年)。

烈祖武帝孫堅と武烈皇后・呉氏との間の次男。同母兄に高祖桓帝[1]孫策、同母弟に孫翊(孫儼)[2]・孫匡[3]、異母弟は孫朗(孫仁)、同母姉あるいは異母姉は弘咨夫人・陳某夫人、異母妹は孫夫人、姪は陸遜(陸議)夫人[4]

概要[]

横山版の孫権

呉郡冨春県[5]の人。幼いころから「孫氏一門のうちで長命し、帝王になる相」といわれた。

184年、父・孫堅が曹操とともに黄巾党討伐に従軍すると、生母と兄・孫策と弟らとともに盧江郡舒県に移住し、12歳のときに父を失い、母と幼い弟と妹ともに呉郡曲阿県に移住した。

199年に盧江郡太守・劉勲討伐に従軍して、戦功を残した。孫権が危うく落命しそうになるも、部将の周泰の奮戦で事なきを得て、周泰は全身に戦いの負傷を負った。その後、曹操の推挙によって、茂才(孝廉)に推挙された。

200年に兄・孫策が前呉郡太守の許貢を絞殺したことが原因で、その末子と食客に襲撃されて、重態になると枕元に呼ばれて、その遺託を受けて20歳で後を継いだ。

同年に孫権が兄・孫策の後を継ぐと、かつて兄が任命した盧江郡太守・李術が袁術の旧部将の陳簡[6]に呼応して、反乱を起こした。この李術は曹操が荀彧の推挙を受けて揚州刺史となった厳象を攻め滅ぼした人物であった[7]。彼は、孫権に飽き足らない呉の部将を招聘して勢力を拡大した。孫権が手紙を出して李術を諭したが、李術は「人望がある者は人が集まると申します。わたくしがそれを否定する筋合いはないでしょう」と返事を出した。これに激怒した孫権は、曹操と協定を結んで李術を討伐して、これを討ち取って晒し首とした。さらに亡兄の盟友であった周瑜も孫権に敬服する態度を取ったために[8]、以降から呉の部将の中で孫権に距離を置いた連中が孫権に心服するようになった[9]

202年、生母の呉氏が40数歳で逝去して、重臣の張昭や周瑜に息子の孫権を支えるように遺言を残した。それを受けて張昭らは肉親の相次ぐ死で憔悴した孫権を強引に政権の中心に引き出して執政させ、魯粛諸葛瑾[10]ら能臣が周瑜を補佐して、呉を曹操と対抗する強大な独立国として支えられた。

前述の周泰が副将に徐盛・朱然を従えたが、両人は周泰に心服せず命に従わなかった。そこで孫権はある日に酒宴を開いて、周泰を丸裸にして自分を護衛したときの古傷を自慢し、「わしが今日まであるのは、周幼平(周泰)のおかげなのだ」と言い、今までの功績で周泰の累進を宣言した。これを見た徐盛・朱然は、以降から周泰の命に従うようなった。

その反面、孫権は重鎮の張昭と仲が悪かった。孫権は酒が大好きでよく酒宴を開いた。張昭は孫権に酒を飲むことを諌めたが、孫権は聞き入れなかった。激怒した張昭は邸宅に閉じ籠って出仕しなかった。孫権も執政するときに張昭がいないと運営できなかったので、使者を出して促したが張昭は応じなかった。怒った孫権も張昭の邸宅の門に土で埋めて出られないようにした。しかし、最終的に孫権が折れて、和解した。

他にも、孫権は虎狩りが大好きだった。張昭はその危険さを諌めたが、孫権は自分を守る防御の檻を作って虎狩りを楽しんで、張昭を呆れさせた。

208年に、かつて江夏郡太守・黄祖の配下だった甘寧[11]は任侠者であり、学者肌の張昭とウマが合わなかった。呉の臣下はみな、張昭に遠慮して顔を立てたが、甘寧だけは遠慮せずに「お前さんは国を支える重鎮だと聞く。しかし、お前さんは君主が留守にすると国が心配だという。それでも重鎮といえるのかね?」といった。はたして張昭は激怒した。これを見た孫権は黄祖を討伐する直前だったので、甘寧に杯を出して「将軍が黄祖を討ち取れば、あなたの功績だ。わたくしは張先生(張昭)の進言に従って、残ることにする」といってその場を収めた。その後、甘寧は見事に旧主の黄祖を討ち取って凱旋した[12]

同年に75万人の軍勢を率いて南下して天下統一を目指したの曹操の軍勢を迎え撃った。しかし、張昭・張紘・顧雍らは降伏論を唱え、周瑜・魯粛と父・孫堅以来の旧臣の程普・黄蓋・韓当らは主戦論を唱えて分裂した。孫権は劉備が派遣し、魯粛と同伴して呉に赴いた諸葛亮の説得に応じて、執政用の机を剣で叩き割り、劉備と連合して曹操の軍勢と激突して、曹操の軍勢が疫病で戦意喪失したことを衝いて、周瑜・黄蓋の提案である家計を採用して、見事に魏軍を撃退した。その間に孫権は病死した揚州刺史・劉馥の支配下にある合淝を攻撃したが、曹操が部将の蒋済・張喜に命じて、魏の4万の軍勢が救援する触れを出したために、これを聞いた孫権は撤退した。これが有名な『赤壁の戦い[13]であり、三国時代の幕が開かれることになった。

翌209年に、荊州西部と南部を劉備に奪われて、魯粛の説得もあり渋々と劉備を荊州牧として認めた。その間に合淝にいる魏の部将の張遼・楽進李典らを討伐するが、陥落できずに撤退した。その後、周瑜の提案で異母妹の孫夫人を劉備に嫁がせて、その間に荊州西部・南部を奪い取る計略を目論んだが、劉備の部将の趙雲龐統に妨害されて挫折し、孫夫人も劉備に同行した。

210年の夏から秋にかけて周瑜が蜀地方にいる益州牧・劉璋を討伐して、呉の領土にすべく遠征を提案して、孫権はこれを聞き届けたが、間もなく周瑜は37歳で病没し、魯粛がその後を継いだ。

213年、益州に向かった劉備の留守を衝いて、周善を派遣して異母妹の孫夫人と打ち合わせて、劉備の少子である阿斗[14]と阿房[15]兄弟を呉に拉致させて、それを楯にして劉備から荊州を奪い返そうとしたが、張飛・趙雲・諸葛亮らの機転で、妨害され周善は殺害され、孫夫人は手ぶらのままで呉に逃げ戻り、以降から劉備との関係は悪化した[16]

同年に曹操は呉に討伐した。孫権は甘寧らに迎え撃たせた。これを見た曹操は「わしは孫権のような息子が欲しい」といった。間もなく曹操は撤退した(『第一次濡須口の戦い』)

215年、孫権は再び合淝に討伐し、甘寧に命じて、盧江郡皖県を攻撃させて魏の部将である盧江郡太守の朱光とその一族を捕虜とした。だが、孫権は張遼の襲撃を受けて危うく落命しかけたが、部将の陳武が自分の命と引き換えに防戦したので、凌統に護衛されて命からがらに敗走した(『逍遥津の戦い』)。

216年、荊州西部と南部を統括した劉備の部将・関羽が無断で、呉の領内に攻め込んで占領したので激怒した孫権は部将の呂蒙に命じて、荊州南部を奪回させ、このときに劉備の部将である零陵郡太守の郝普[17]が呂蒙の策略で、郝普の竹馬の友である南陽郡鄧県の人である鄧玄之(鄧芝の同族)を派遣して懐柔したため、呉に降伏した[18]。その後、魯粛の仲介で停戦して和睦された。

217年、魯粛が48歳で逝去し、その後を強硬派の呂蒙が後を継いだ。孫権は長男の孫登の妻として関羽の末娘と婚姻して和睦を結びながら、呂蒙に命じて関羽の隙を見て荊州を奪おうとしたが、激怒した関羽に見破られて撤退した[19]

同年に曹操は再び呉を討伐した。孫権は部将の呂蒙に迎え撃たせて、呂蒙は魏の軍勢を撃破した。その後、曹操は孫権と和睦を結んで撤退した(『第二次濡須口の戦い』)

219年、曹操と同盟を結んで、呂蒙・陸遜と従弟の孫皎に命じて関羽を孤立させて、これを当陽県漳郷で部将の潘璋配下の司馬の馬忠の軍勢が関羽をはじめ、庶長子の関平・義弟の胡班・都督の趙累・部将の呂布(周倉)・廖化らを捕虜にした。同県臨沮で降伏した廖化を除いて、関羽一味を処刑した。冬10月24日のことであった。翌11月17日に呂蒙が43歳で、翌々12月に従弟の孫皎が30数歳で相次いで病死した[20]。こうして、孫権は魏が支配している荊州北部を除いて、荊州の中部と南部を支配下に置くことに成功した。

220年、家臣の趙咨を魏に派遣して、逝去した曹操の後を継ぎ皇帝となった息子の曹丕[21]と謁見し、曹丕より呉王に封じられて、さらに荊州牧に任命された。孫登を太子とした。

221年、蜀漢の皇帝・劉備が10万の軍勢を率いて呉を遠征した。孫権は親族の孫桓(兪桓)に命じて防御させたが、蹴散らされた。そこで妹婿の陸遜に命じて、韓当・宋謙・周泰・徐盛・潘璋らを副将として15万の軍勢を率いさせて、劉備を迎え撃たせた。翌222年夏6月に陸遜は火計で劉備の軍勢を撃退した(『夷陵の戦い』)。

そのときに曹丕は孫権に無断で自ら親征して、蜀漢の部将・黄権を降した。孫権はこれを不快に感じて。自ら北上し、部将の朱然に命じて魏を討伐したが、疫病のために魏は撤退した[22]

223年、春3月に再び曹丕は孫権の行為が盟約に叛いたと判断して、再び親征した。最初は魏が優勢であったが、孫権は朱桓に迎え討たせて、大司馬の曹仁[23]の部将である常雕(常彫)を討ち取り、王双を捕虜するなど戦果を挙げた。再び魏は前年同様に疫病もあり撤退した。

交州刺史または交阯郡太守・士燮(士爕)に命じて、益州属国[24]を支配した雍闓[25]と結ばせた。雍闓は、現地の豪族で人望があった孟獲を擁立して亡き劉備が派遣した益州属国太守の張裔[26]を捕虜として、呉に送った。これを聞いて危惧した丞相・諸葛亮は鄧芝を派遣して、孫権を説得させた(鄧芝の項目を参照)。孫権も曹丕から太子の孫登を人質に寄越すような理不尽な要求があったので、鄧芝の要求に応じて張裔を返還し、代わって臣下の張温を派遣し、鄧芝の帰還に同伴させた。

224年、呉が蜀漢との同盟に激怒した曹丕は自ら親征したが、部将の徐盛が長江沿岸に築いた偽の城壁に驚愕し、戦わずに撤退した。225年冬にも曹丕は親征したが、この年は厳寒のために川が凍り、船を動かすことが困難にために撤退した。

229年、孫権は呉の皇帝に即位し、陸遜を丞相に、諸葛瑾を大将軍に任命した。

孫権の臣下に兄・孫策の代からの虞翻がいた。彼は孫権が酒宴をたびたび開くことに辟易して、孫権からの杯を拒否したことがある。また虞翻も孫権の行為をたびたび直言したことがある。ついに激怒した孫権は虞翻を処刑するように命じた。ところが、大司農の劉基[27]が、虞翻の助命を嘆願して、孫権は処刑を取り止めて、南方の交阯郡に流罪とした。

232年、将来を期待された次男で建昌侯・孫慮が21歳の若さで夭折した。孫権はその死に嘆き悲しんだ。

233年から234年に孫権は蜀漢の諸葛亮の北伐に呼応して、自ら10万の軍勢を率いて合淝に討伐した。魏の烈宗明帝曹叡は部将の満寵を派遣して、迎え撃たせた。しかし、満寵の火計を受けて、矢の雨を浴びせられた甥の孫泰[28]が戦死し、敗走した。さらに魏の曹叡自らが援軍を率いて親征してくると、撤退した。

同年に遼東郡を割拠とした公孫淵[29]は配下の校尉・宿舒と郎中令・孫綜を呉に派遣し、「我々は呉の藩国になりたい」と上奏した。孫権は上機嫌となり、翌233年に臣下の太常・張彌(張弥)と執金吾・許晏および将軍の賀達らが率いるが1万人の警護兵を従えてを見返りの使節として遼東郡に派遣され、公孫康を「燕王」に封じさせた。ところが、丞相の顧雍らは遼東郡に1万人の警護兵を派遣することに反対した。それでも孫権は聞き入れず、強行した。果たして、公孫淵は変心し張彌・許晏・賀達らを斬首して、その首を魏の曹叡に届けて、魏の藩国となり1万人の警護兵を奪い取って自軍に編入した[30]。張彌・許晏・賀達に同伴したわずかの官吏が朝鮮を経て、呉に逃げ戻って公孫淵の変心を報告した。果たして孫権は激怒して遼東郡に遠征すると息巻いたが、顧雍・陸遜・諸葛瑾らに諌められて思いとどまった。以降から孫権の権威は徐々に薄まっていったのである。

裴松之は「この孫権の行為は利益がないどことろか、ムチャクチャで有害でさえある」と述べている。

236年~237年ころに、孫権の寵臣である中書典校・呂壹(呂壱)がいた。この呂壹は自分が嫌いな呉の重臣を孫権に讒訴して、思い通りに処刑させる低俗な人物であった。太子の孫登をはじめ武昌県に駐屯した太常・潘濬らは都の建業県に参内して、呂壹を処刑することを目論んで酒宴を開いて呂壹を粛清しようとしたが、呂壹が邸宅から出てこなかったので失敗した。数年後、顧雍と闞沢ら重臣たちも次々と呂壹の粛清を進言したので、孫権はたまたま呂壹の「姦罪」が発覚したため、それを理由についに呂壹を誅殺した。ますます孫権の威光は凋落した(『呂壹事変』)。

あるとき、孫権は中書郎の袁礼を『呂壹事変』以降から孫権に心服しなくなった重臣たちの意見を聞くことも兼ねて、派遣した。まずは諸葛瑾・歩隲・朱然・呂岱のもとに赴かせた。4人とも「民事はわれらの専門事項ではないので、特に意見はない。 もし伺いたいのなら、潘濬・陸遜どののところに向かわれるがよろしい」といった。そこで、袁礼は潘濬・陸遜のもとに向かって、意見を乞うた。すると両人とも浮かない表情をして物を言えない様子であった。袁礼から報告を聞いた孫権は自分が重臣の信頼を持ってないことに愕然とした。そこで孫権は詔を出して「人の判断がすべて正しいといえるだろうか?ただ自分だけが正しいと思い込んで、他人の意見を拒んでしまった。そのために諸君たちから疎遠され、見放されてしまった。できれば諸君たちはわしに直言してほしい。わしの足りない個所をどんどん訂正するための意見が欲しいのだ」と述べている。

241年、長男である太子の孫登が34歳で逝去して宣太子と謚された。以降から孫権は老害をきたすようになった。

243年~244年ころ、3男である太子の孫和[31]と、その異母弟の魯王・孫覇(孫権の4男)の派閥が後継者争いが苛烈化した。この問題を諌めた古参の吾粲をはじめ張休(張昭の末子)、顧譚(顧雍の孫)らに対して孫権は激怒した。張休・顧譚に対しては南方の交阯郡に流罪し、後に中書令・孫弘[32]の讒言で死を賜った。古参の吾粲の場合は、魯王の近侍である楊竺を粛清するように直言したため、魯王と楊竺の直訴で吾粲は逮捕投獄され、処刑された。

さらに臣下の陳正・陳象の直言に対しては、孫権は本人とその一族を皆殺しの刑に処している。

同僚で同年輩の吾粲の刑死を聞いた丞相の陸遜は武昌県に駐屯して、吾粲から後継者騒動の報告を聞いていた。そこで陸遜は幽閉された太子を実質的に後継者にして、魯王を廃するように進言したが、魯王を溺愛する孫権はこれに激怒して面会を拒んで、陸遜を懲戒免職した。245年、陸孫はあまりのことに発病して憤死した。64歳だった。

これを聞いた孫権は衝撃を受けて、250年についに太子の孫和を廃嫡し、南陽王に降格させた。魯王の孫覇には死を賜り[33]、末子の孫亮を太子として決着をつけたが、時はすでに遅く、呉の国力は徐々に衰退していった(『二宮事変』)。

252年夏4月16日に孫権は孫峻(孫権の従孫)・諸葛恪(諸葛瑾の長子)・呂拠(呂範の子)・滕胤・孫弘らに、太子の孫亮の後事を託して、逝去した。彼は短命が多い呉の孫一族で唯一の長命であり、齢72だった。

陳寿は「孫権は春秋時代末期の越の王である句践のような人物である。苦難があるときは低身となり恥を忍んで、能力がある臣下を要職に抜擢するなど非凡の才能があった。そのために呉を強大国にした功績があったが、その反面猜疑心が強烈で、容赦なく臣下を処刑する酷薄さがあった。特に晩年がその傾向が強まり、功臣である陸遜を憤死に追い詰め、わが子(魯王・孫覇)に賜死させるなど国力を弱体化する功罪は重いといえるであろう」と述べている。

孫権は日本でいえば、毛利輝元に匹敵する人物であろう[34]

[]

  1. 孫登(宣太子)
  2. 孫慮(建昌侯)
  3. 孫和(廃太子/南陽王/文帝):後主孫皓(孫彭祖/帰命煬公)の父
  4. 孫覇(魯王)
  5. 孫奮(斉王)
  6. 孫休(景帝
  7. 孫亮(廃帝/会稽王)

脚注[]

  1. 呉書』孫策伝および孫権伝では、長沙桓王。
  2. 孫松の父。
  3. 孫泰の父。
  4. 兄・孫策の3人の娘は、いずれも孫紹の姉にあたる。
  5. 現在の浙江省杭州市冨陽県
  6. 陳蘭とも呼ばれる。
  7. このときの厳象は享年39であった。
  8. 『呉書』周瑜伝
  9. まもなく陳簡はいずこかに逃亡するも、後に曹操の部将の張遼に滅ぼされた。
  10. 蜀漢の諸葛亮の異母兄か従兄。
  11. 巴郡臨江県(現在の重慶市忠県)の人、遠祖であるの将軍の甘茂・甘羅は南陽郡下蔡県(現在の安徽省淮南市鳳台県)の人(『晋書』甘卓伝)。
  12. 正確には呉の一兵卒・馮則(馮極)が黄祖を討ち取っている。
  13. 『江表伝』では、『烏林の戦い』と呼ぶ。
  14. 後の後主劉禅のこと。
  15. 後の魯王・劉永のこと。
  16. 『漢晋春秋』
  17. 南陽郡義陽県(現在の河南省南陽市)の人。
  18. 『呉書』呂蒙伝
  19. 裴松之が引く『典略』
  20. 三国志演義』では関羽の祟りとしている。
  21. 廟号は太宗文帝
  22. このときから、孫権は劉備と再び盟約を結ぶことに傾倒したという。
  23. 曹丕の族父に当たる。
  24. 225年以降は建寧郡と改称する。
  25. 梓潼郡(現在の四川省綿陽市梓潼県)の人で、前漢の什仿(什邡)粛侯の雍歯の後裔で、主簿の雍茂の族兄弟にあたる(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。
  26. 張任の子。
  27. の宗族である楊州牧・劉繇の子。
  28. 同母弟の孫匡の子。
  29. 公孫度の孫。
  30. この功績で、公孫淵は魏の大司馬・楽浪侯となっている。
  31. 後に子の孫皓によって、文帝と謚された。
  32. 呉の非皇族で、孫権とは赤の他人。
  33. さらに、楊竺は拷問をかけられ処刑された。
  34. 両人とも酒が大好きで、臣下を処刑するのが盛んだった点が類似しているという。

関連項目[]

先代:
孫策
孫呉初代皇帝
229年 - 252年
次代:
孫亮
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