日本通信百科事典
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孫秀(そんしゅう)とは、古代中国の人物。約2名ほど存在する。

  1. 孫秀 (呉) : 字は彦才の宗室で、烈祖武帝孫堅の曾孫、孫匡の孫、孫泰の子、孫倹の父、孫某の祖父、孫晷[1]の曾祖父。正室は蒯氏(蒯良の孫)。又従兄の後主孫皓(孫彭祖/帰命煬公)[2]と折り合いが悪く、後に誅殺されかける憂き目に遭い、一族を率いて晋に亡命した。晋の世祖武帝の司馬炎は彼を厚遇して、驃騎将軍に任じて、自身の正室の楊氏の母方の従妹の蒯氏を娶らせた。280年に呉が滅亡すると、「ああ…元宗(孫皓)とは、なんという暗愚な暴君なのか…」と嘆いたという。
  2. 孫秀 (晋) : 字は俊忠(西晋)の政治家。琅琊郡[3]の人。先祖代々が道教系の五斗米道を信仰していた。若い頃は琅琊郡の下級官吏として出仕したが、彼は狡賢く悪辣な人物であった。琅琊郡の黄門郎の潘岳にも仕えていたが、彼は孫秀の本性を見抜いて、これを憎悪して、鞭打ちで辱めた。その後、琅琊王の司馬倫の近侍となり、信頼を得た。やがて王に栄封された司馬倫に同伴して朝廷に進出して、権勢を得た。斉武閔王の司馬冏と淮南忠壮王の司馬允は大叔父の司馬倫の跋扈専横を憎悪しており、それを聞いた司馬倫は孫秀に告げて、密談した。やがて、孫秀はかつて自分を辱めた潘岳とその親友である衛尉の石崇らも併せて、軍勢を伏せて司馬允をはじめ、反対派らを皆殺しとした。完全に権勢を得た孫秀であったが、数ヶ月後に、生き残った司馬冏は、晋の宗族である尚書・広陵王の司馬漼と左衛将軍王輿らが1700人の軍勢を率いて、朝廷に傾れ込んで、孫秀は恐れて配下の許超・士猗とともに逃亡を図るも、左衛将軍の趙泉に捕縛され、処刑されて晒し首とされた。司馬倫も金墉城に幽閉され、数ヶ月後に金屑酒で毒殺された。彼の最期の言葉は「孫秀が我を誤らせた…孫秀が我を誤らせた!!」と叫んだという。司馬倫の子の司馬荂・司馬馥・司馬虔・司馬詡も廷尉に引き渡され、処刑された。

脚注[]

  1. 字は文度。39歳で逝去し、嗣子はなかったという。
  2. 孫権の孫。
  3. 現在の山東省臨沂市
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