
岡田親義の肖像
岡田 親義(おかだ ちかよし、天仁元年(1108年)? - 寿永2年(1183年))は、平安時代末期の武将。通称は刑部五郎/岡田冠者、官職は左衛門尉。信濃岡田氏(信濃源氏)の祖。
新羅三郎義光の子、祐義(覚義入道)[1]・佐竹義業(義成)・逸見義清(武田義清)・平賀盛義の弟、重義(小太郎)・久義(小次郎)の父。
概要[]
若いころから朝廷に仕えて、保元元年(1156年)に山城国の平野神社領(のちに岩清水八幡宮領)に属していた信濃国筑摩郡岡田郷[2]の浅間神社領の荘官として赴任した。
治承4年(1180年)に、以仁親王の令旨に呼応して、息子たちを率いて挙兵した。従曾孫の木曾義仲に従軍して、老骨に鞭を打ちながら、『会田・麻績の戦い』や『横田河原の戦い』などで平家の軍勢を撃破するが、寿永2年(1183年)に、越中国の『倶利伽羅峠の戦い』で、平知度(清盛の子)と激突して、長子の重義とともに壮絶な戦死を遂げた。享年76という。
なお、次子の久義は、平為盛(清盛の甥、頼盛の次子)と取っ組み合いとなり、激戦の末に見事にこれを討ち取ったというが、異論も多く諸説がある。
脚注[]
参考文献[]
- 『尊卑分脈』
- 『源平盛衰記』