
島田満基の肖像
島田 満基(しまだ みつもと、永享12年(1440年) - ?)は、室町時代中期の武将。土岐満基/嶋田満基とも呼ばれる。通称は孫五郎。
土岐氏(美濃源氏)一門の土岐頼清(頼宗)の6世の孫、頼雄の玄孫、島田満定(満貞)の曾孫、満名[1](五郎)[2]の孫、満清(小五郎)の子。
概要[]
美濃島田氏(美濃嶋田氏)は美濃国多芸郡島田(嶋田)郷[3]を拠点とした。
父の満清は、伊勢国守護でもあった又従兄の世保持頼(持量/持数)[4]に従って、遠縁筋の足利将軍家の足利義教と対立しつつも、1440年夏に、義教の命で足利氏(下野源氏)の源姓一色氏(三河源氏)の当主の一色義貫(義範)とともに、おなじく遠縁筋の大和国の源姓越智氏(大和源氏)を討伐の最中に、義教の密命を受けた長野満藤・草生大和守・中尾民部・雲林院らの軍勢に三輪の陣営を包囲されて、持頼ら一族とともに自刃して果てた。
そのとき、満基は出生しておらず、生母の胎内にいたが、数か月後に満清の遺腹の子として、誕生したという。その後、族兄の世保政康(持頼の子)とともに、惣領家である族祖父の土岐持益の庇護を受けて、成長したという。
成長した満基は、持益の命を受けて、族弟の揖斐基信[5]とともに政康を補佐して、義教の子の足利義政(義成)の奉公衆となった。
『応仁の乱』では、義政の弟の足利義視(義躬)を擁立した足利氏一門の細川氏(三河源氏)の当主の細川勝元率いる東軍に属した政頼に基信とともに従軍したために、逆鱗に触れた義政の正室の日野富子によって、戦後に基信とともに奉公衆を解任されて、美濃国に戻って、隠棲したという。
満基は嗣子がなく、16世紀を迎えたまま還暦を過ぎて、惣領家である族弟の土岐政房(頼継)[6]の庶子の頼満に末娘を娶らせて、婿養子に迎えたという。
以降の満基の晩年は不詳だが、後を継いだ頼満は1541年に敵対した重臣の斎藤秀龍(後の斎藤道三)の手によって、毒殺された。頼満には嗣子がなかったので、ついに美濃島田氏は断絶した[7]。
脚注[]
- ↑ 読みは、みつあき/みつかた/みつもり。
- ↑ 木和田安逵(菅沼資長)室の兄。
- ↑ 現在の岐阜県養老郡養老町島田(嶋田)地区
- ↑ 頼雄の曾孫、康行(頼行)の孫、世保康政(国康・満康(持康の父)の兄)の子、東陽英朝(僧侶)の兄、政康の父。
- ↑ 頼雄の玄孫、揖斐詮頼の曾孫、友雄(行久(益頼の父)の孫、基春(基雄)の子、明智頼尚室の兄、光親の族父で岳父。
- ↑ 持益の従弟の佐良木光俊の孫。
- ↑ 三河国設楽郡島田(嶋田)郷(現在の愛知県新城市愛郷大字島田(嶋田)地区)の矢作城主の島田利秀(嶋田利秀)は、碓井姓鎌倉氏流相模長江氏一門の美濃長屋氏の庶家の三河島田氏(三河嶋田氏)の当主で、土岐光忠(月海入道とも、頼忠の子)の子の定忠(貞忠/矢作太郎)・定俊(貞俊)父子の後裔と詐称した。
関連項目[]
- 美濃島田氏(美濃嶋田氏)
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