日本通信百科事典
平将常

平将常像

平 将常(たいら の まさつね、975年(天延3年)? - 1057年(天喜5年)?)は、平安時代中期の武将。丹姓平良文の孫、忠頼(常明/忠依入道)の子、生母は従父の将門の娘。同母兄は忠常[1]、同母弟は頼尊忠胤[2]、常時(常辰)・常基・常宗の父、常邦の祖父。妻は武蔵国の在庁官人の武蔵武芝の娘[3]

概要[]

1023年(治安3年)に、武蔵介の藤原真枝(藤原氏)が勅命に叛いて、反乱を起こした。将常は勅命で、相模国上総国の軍勢を率いて、藤原真枝を討伐し、武蔵国豊島で激戦した。激戦の末に大敗した藤原真枝は逃れて自害して果てた。将常は真枝を鎮圧した戦功で、武蔵権大掾に任じられて駿河国武蔵国上総国下総国などの広大な領地を拝領したという。

1028年(長元元年)に、同母兄の忠常が房総半島で大規模な反乱(『平忠常の乱』)を起こしたが、将常は同母弟の頼尊とともに兄に加担せず、勢力を大きく減退させることはなかったと伝わる。

『前九年の役』で戦没したと伝わり、将常の子の常時(常辰)・常基・常宗を経て、将常の孫の常邦・常家兄弟(ともに常時の子)には嗣子がなく、将常の系統は断絶したという。

後世の武蔵七党の筆頭格に属する秩父氏[4]畠山氏)は、将常の末裔と仮冒した[5]

脚注[]

  1. 房総平氏坂東八氏千葉氏・上総氏)の祖。
  2. 頼親(頼近)・常遠(常任/常佐)・常之の父、常文(常益)・常平兄弟(頼親の子)の祖父。
  3. 『西角井系譜』より。
  4. 実際は古代の秩父国造(知々夫国造)の末裔である(『姓氏』(著者:丹羽基二・監修:樋口清之/秋田書店/1970年)より)。
  5. 将常と同時代に、秩父別当である秩父忠恒(忠経)とその子の恒昌(恒高)とその孫の武任(武佐/恒邦)とその曾孫の恒明(経明)こと政恒(武基・豊島武恒(武蔵豊島氏の祖)・小山田恒任(恒佐/恒時)の父)・村山基宗(頼任(頼佐)の父)兄弟が存在し、これが実質的な秩父氏の祖である。同時に『桓武平氏良文系全系図‎』では「平政恒」と記述されている(『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年)による)。

関連項目[]