
平忠常の肖像
平 忠常(たいら の ただつね、康保4年9月13日(967年10月19日) - 長元4年6月6日(1031年6月28日))は、平安時代中期の武将。通称は千葉小次郎、法号は常安入道(じょうあんにゅうどう)。
丹姓平氏一門の平良文(良忠)の孫、忠頼(常明/忠依入道)の子、将常・頼尊(忠胤)[1]の兄、忠将・常将・常近(常親)・胤宗[2]・忠宗・忠高・頼常の父。平将門は父方の従父で、同時に母方の祖父でもある。正室はおなじく従父[3]の平致兼(公雅)の娘[4]。
生涯[]
祖父の良文は下総国結城郡村岡郷[5]を本拠地と村岡五郎と称して、下総国結城郡や相馬郡と千葉郡の大半を所領とした。父の忠頼も坂東で有力な豪族として名をはせていた。
忠常は祖父と父の地盤を引き継いで、下総国・上総国・安房国などの広大な所領を有して、千葉介・武蔵押領使に任官されていた。
若いころは。京に上って藤原教通(藤原北家嫡流道長の次子)に「滝口の衛士」として、仕えていた形跡があった。以降の忠常は強大な武力を背景に傍若無人に振る舞って、国司の命に従わず租税も納めなかったといわれている。ことに長和5年(1016年)以前から、忠常にとっては外族兄[6]である常陸国の左衛門大夫・平維基こと維幹(繁盛の次子)と利権をめぐって抗争しており、忠常は維基(維幹)のことを「維基ハ先祖ノ敵也」と述べている[7]。
長元元年(1028年)6月に、忠常は安房国の国府を襲撃して、上記の維基の従子である安房守の平維忠(貞盛の孫)父子を焼き殺す事件を起こした。その原因は判明できないが、受領との対立が昂じたものと思われる。これを聞いた維忠の従父の維幹(維基)は、激怒して朝廷に直訴した。
維基の直訴を聞いた朝廷は忠常追討を決定して、追討使に平貞方こと直方(貞盛の曾孫、維忠の従子)に討伐を命じた。官軍を相手に忠常は頑強に抵抗した。その乱は房総三ヶカ国に広まって、戦いによる被害と官軍による強引な徴発により大いに疲弊した(『平忠常の乱』(『長元の乱』))。
長元3年(1030年)9月に、ついに平貞方が解任されて、貞方の遠縁筋で同時に姻戚関係にある甲斐守・源頼信が追討使に任じられた。長期にわたる戦いで忠常の軍勢は疲弊しきっており、長元4年(1031年)春に、ついに忠常は出家して常安入道と称して、ふたりの子の常将と常近をはじめ従者を伴って、頼信のもとへ出頭して降伏した。同年6月に、忠常は京へ連行される途上の美濃国野上で病没した。享年66。
頼信は忠常の遺骸の首を斬り取って、京で梟首とさせたが、後に首は息子たちのもとに返還されている。嫡子の常将・常近も罪を許された。
忠常の後裔は房総半島の有力豪族として繁栄して、坂東八氏(房総平氏)と称した。後に鎌倉幕府の鎌倉頼朝[8]に仕えて、御家人となる上総氏(上総平氏)・千葉氏(下総平氏)などが出た。
脚注[]
平忠常が登場する作品[]
- 『平安流風』(桑山泰雄)
関連項目[]
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