
平繁盛像
平 繁盛(たいら の しげもり、生没年未詳)は、平安時代中期の武将。官職は陸奥守・秋田城介・常陸大掾。そのために、大掾繁盛とも呼ばれる。
桓武平氏の惣領家である平良望(国香王)の常陸大掾・源護(嵯峨源氏/仁明源氏)の娘との間の次男[1]。異母兄は貞盛、同母弟は良正(良盛/兼任)ら。
概要[]
935年に父が外従弟の将門によって、自害に追い詰められると、母方の義理の叔父(叔母の夫)である良兼と弟の良正とともに、異母兄の貞盛を説得して将門を討伐させた。
940年に兄弟で将門を討ち取って、これを鎮圧すると戦功によって陸奥守に任じられた[1]。だが、兄の貞盛と比較して恩賞や賜与された領地が少なく、繁盛は弟の良正とともに朝廷に対して大いに不満をもった。
986年(寛和2年)または987年3月4日(寛和3年正月24日)[2]に、繁盛は国家守護のために『大般若経』600巻の書写を比叡山の延暦寺へ奉納して、朝廷への忠誠を示そうとした。だが、これは仇敵で外従弟[3]であった平忠輔・忠頼[4]・忠光[5]兄弟らによって妨害された。そこで、繁盛は朝廷に訴えて、追討使として討伐した。だが、その訴えも無効になってしまい、引き揚げた。そのために繁盛は太政官に対して、上申書を提出し各地の国衙を経由して奉納するという条件で、やっとのことで比叡山への奉納を完遂することができた。
晩年は、兄の貞盛の官職を受け継いで、常陸大掾に任じられた。同時に秋田城介に任じられた。
家族[]
- 妻 : 斎部俊成の娘
- 平兼忠 : 大掾兼忠とも呼ばれる。大掾高衡の父、実忠の祖父、実頼・盛兼の祖父、実興(実頼の子)・信兼(盛兼の子)の曾祖父、実治(実興の子)・山木兼隆・兼衡・信衡・兼時兄弟(信兼の子)の高祖父。繁盛流伊勢関氏の祖となる。庶家に伊豆山木氏[6]がある。
- 平維幹 : 大掾維幹とも呼ばれる。別称は「維基」。伯父の貞盛の養子となり、父の後を継ぐ。大掾氏(常陸平氏・坂東平氏)などの祖となる。左衛門大夫を歴任した。
- 平維茂 : 大掾維茂とも呼ばれる。別称は「維良」[7]。同じく伯父の貞盛の養子となり、「余五将軍」とも呼ばれた。越後奥山氏・越後城氏(越後平氏)・梁田氏(下野平氏・下総平氏)[8]の祖となる。
- 平安忠 : 大掾安忠とも呼ばれる。子に安貞、孫に将盛がいる。数代で断絶した[9]。
- 平維朝 : 大掾維朝とも呼ばれる。子に維風がいる。仔細は不詳だが、兄たちとともに伯父の貞盛の養子になったと推測される。
脚注[]
- ↑ 1.0 1.1 『尊卑分脈』
- ↑ 『太政官符』
- ↑ 繁盛の義理の叔父(叔母の夫)である平良文の子という親族関係で、同時に将門の従弟でもある。
- ↑ 忠常(坂東八氏(千葉氏)の祖)・将常・頼尊の父。
- ↑ 村岡氏の祖。
- ↑ 伊豆国田方郡山木郷(現在の静岡県伊豆の国市山木大字)を本拠とした。
- ↑ 『中世東国武士団の研究』(野口実/高科書店/1994年)「平維茂と平維良」が引用する『今昔物語集』巻第25第4「平維茂が郎党、殺され話」・第5「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」にて、維茂が維良と同人物であるとの見解を示している。
- ↑ 『与吾(与五)将軍系図』(東昌寺所蔵)・『古河市史資料中世編』・『簗田家文書』より。
- ↑ 陸奥国の岩城氏(磐城氏)をはじめ楢葉氏(標葉氏)・奥州行方氏・奥州真壁氏・奥州岩崎氏・奥州山名氏などの氏族は安忠の末裔と自称(仮冒)したが、実際は「平姓」を冠とした石城国造の系統である。