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平致時

平致時の肖像

平 致時(たいら の むねとき、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。丹姓平良兼の次子、致兼(公雅)の弟、致基(公元)の兄、致孝の父、致良の祖父。後に出家して公連と号した。官職は従六位下・下総権少掾。尾張毛利氏相模平氏/尾張平氏)の祖。

概要[]

父の良兼らが従弟の平将門と激しく争い、勝利して姉である将門の妻とその子を捕らえて、これを上総国に幽閉すると、兄の致兼ととも姉を将門の許に逃がしたとされる[1]

天慶2年(939年)の冬12月に、将門が「新皇」と僭称して反乱をおこすと、義理の従兄の平貞盛藤原秀郷(貞盛の外叔父)らに討たれた後に、征東大将軍の藤原忠文(藤原式家)の同族で副将のひとりの藤原忠舒によって押領使に任命されて、天慶3年(940年)春4月8日をもって下総国に入って、将門の残党の掃討を行なった。

そのために、将門の嫡子の将国[2]とその配下の藤原連国[3]玄明の子)は、常陸国に逃れた。

彼の子の致孝は、相模国愛甲郡毛利郷[4]を賜り、毛利氏と称して、その子の致良の代に尾張国に移住した。戦国時代織田信長の家臣で、今川義元を討ち取った良勝(新介秀高、致勝の子)や天文16年(1547年)に美濃国稲葉山城攻めで戦死した毛利敦致(十郎)の子の秀頼(長秀/秀致/長致)とその子の秀秋(致秋)・秀政(致政)兄弟は豊臣秀吉に仕えた。さらに豊臣秀頼の武将として活躍した勝永(良政、勝信(良成)の子)などが出た。

脚注[]

  1. 『将門記』には良兼と将門の関係を「舅甥ノ中既ニ相違フ」(舅甥ノ中=舅と聟)とあり、また将門の妻子が良兼に捕らえられた際「妾ガ舎弟等謀ヲ成シテ」(つまり、舎弟=将門の妻の弟)とあり、将門の妻は良兼の娘であったとする説がある。
  2. 篠田氏の祖。
  3. 常陸伊佐氏の祖。
  4. 現在の神奈川県厚木市毛利台

関連項目[]

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