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平良望(国香王)

平良望(国香王)像

平 良望国香王(たいら の よしもち/くによしおう/くにたかおう、?[1] - 935年3月14日(承平5年2月4日))は、平安時代中期の皇族・武将。臣籍降下以前の名は「国香王」。「良茂」[2]、あるいは「良繁」とも呼ばれる[3]。官職は常陸大掾・鎮守府将軍。

高望王と藤原良方(藤原北家)の娘との間の嫡長子。姉妹に平良将[4]室・平良文室・藤原維幾室。

概要[]

861年(貞観3年)に清和天皇の勅命、あるいは889年6月14日(寛平元年5月13日)に、宇多天皇の勅命により、父とともに平姓(桓武平氏=武家平氏)を賜って、臣籍降下をした。

898年(昌泰元年)に上総介に任命された父の高望の代わりに目代として、坂東地方の上総国に赴いた。後に筑波山西麓付近にある常陸国真壁郡東石田郷[5]を本拠地とした。

常陸大掾・源護(嵯峨源氏/仁明源氏)の娘と下野大掾の藤原村雄(秀郷の父)の娘を妻とし、岳父の源護から地位を受け継ぎ、坂東地方に勢力を拡大して、武家貴族(軍事貴族)としてその基盤を固めた。

義弟で外従弟でもある良将(将門の父)・良文兄弟と仲が悪く、良将・良文兄弟の異母兄で、良望の相婿でもある平良兼と組んで、抗争を繰り返した。後に長子の貞盛に家督を譲って、隠居したが依然として実権を握っていた。

数年後に良将が逝去して[6]、その次男の将門が後を継いだが、良望は良兼とともに外甥の将門・将平兄弟および義弟の良文らと抗争を繰り返した。京から帰途中の外甥の将門を、義兄弟の良兼とともに武蔵国の渋谷川[7]で襲撃したが、将門の叔父である良文の救援があり両軍は激戦となり、良望・良兼らは撃破されて、敗走した。

935年3月14日(承平5年2月4日)に、義弟である源扶(護の子)兄弟に呼応して、将門を攻撃するがかえって将門の反撃に遭って、扶兄弟は戦死し良望は命からがらに石田郷の居舘に逃げ戻って、火を放って自害した[8]

京で左馬允在任中に父の非業の死の報を聞いた子の貞盛は、休暇を申請して逸早く坂東に帰還した。貞盛は、一時的に旧怨を水に流し外従弟・将門との和睦をした。だが、義理の叔父の良兼と異母弟の繁盛良正(良盛/兼任)兄弟に批判・説得されて、結局は将門と敵対することになり、『承平天慶の乱』[9]の発端となった。

家族[]

  • 正室(先妻) : 藤原村雄の娘[10]
  1. 平貞盛相模平氏伊勢平氏平家(六波羅氏))・伊勢氏伊勢関氏(貞盛流)・小松氏池氏の祖となる。
  • 継室(後妻) : 源護の娘[11]
  1. 平繁盛大掾氏常陸平氏坂東平氏)・越後奥山氏越後城氏越後平氏)・梁田氏下野平氏下総平氏[12]・伊勢関氏(繁盛流)・伊豆山木氏の祖となる。
  2. 平良正(良盛/兼任) : 国兼貞時の父。数代で断絶した。

脚注[]

  1. 生年は850年前後の説がある。
  2. 『尊卑分脈』では、良正を高望王の末子・良茂の子で、良正の父とする。また、良茂は三浦氏鎌倉氏長尾氏大庭氏梶原氏)・土肥氏(中村氏)らの祖とする。だがこれは、系譜上の仮冒の疑いが濃い見方がある。
  3. 『将門記』
  4. 丹姓平直良の子。
  5. 現在の茨城県筑西市(旧下館市)付近
  6. 良将の没年は、917年(延喜17年)・918年(延喜18年)や930年10月(延長8年9月)の説がある(『常陸国正宗寺旧記』)。
  7. 現在の東京都渋谷区周辺
  8. 良望(国香王)自身は、老衰で逝去した説もある(『平将門』(幸田露伴/青空文庫/2014年)より)。
  9. 『平将門の乱』とも呼ばれる。
  10. 『系図纂要』
  11. 『尊卑分脈』
  12. 『与吾(与五)将軍系図』(東昌寺所蔵)・『古河市史資料中世編』・『簗田家文書』より。

関連項目[]