
平良盛(良正)像
平 良盛・良正・兼任(たいら の よしもり/よしまさ/かねとう/かねただ、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。官職は下野介。
桓武平氏(武家平氏)の棟梁である平良望(国香王)と常陸大掾・源護(嵯峨源氏/仁明源氏)の娘との間の末子(3男)で、異母兄は貞盛、同母兄に繁盛がいる。妻の名は不詳で、子に国兼・貞時[1][2]がいる。
概要[]
父から筑波山麓付近にある常陸国筑波郡水守[3]を与えられて、そこを本拠地とした。
935年3月14日(承平5年2月4日)に母方の従兄弟である源扶兄弟が、外従弟の平将門と抗争して、扶兄弟が戦死しこれに呼応した父の良望が巻き込まれ、自邸に火を放って自害した。長兄の貞盛は京で左馬允在任中であったが、急いで坂東に帰還して、次兄の繁盛とともに父の非業の死を悲しみ、山林に潜伏した生母と姉妹を捜し出してこれを庇護した。
上総国の目代で、父の平直良亡き後丹姓平氏の棟梁となった義理の叔父[4]・平良兼は甥の将門の関して当初は不介入であった。だが、父の非業の死に怒りが収まらない良正は同母兄の繁盛とともに母方の祖父である源護に真っ先に加勢して将門と争った。
良正の過激な行動により、異母兄の貞盛も重い腰を上げざるを得ずに、良正に加勢して将門との争いがますます激化した。同年11月(承平5年10月)、良正は兄の貞盛・繁盛とともに再び将門追討して、その報を聞いた将門が迎え討って、同年12月1日(承平5年10月21日)に常陸国新治郡川曲村[5]にて激突して、激戦となった。しかし、良正ら撃破されては敗走し、将門は翌日22日に本拠地の下総国豊田郡[6]に引き揚げた。
その後、良正兄弟は義理の叔父の良兼に将門のことを告訴した。将門の伯父で岳父であった良兼も、甥の将門の勢力を放っておけず、翌936年7月(承平6年6月)に、良兼は良正兄弟とともに下野国境にて将門と戦ったが、またしても将門に敗れて敗走した。
939年7月(天慶2年6月)に義理の叔父の良兼が亡くなり、その子の致兼(むねかね)[7]・致時(むねとき)[8]兄弟がその後を継ぐと、彼らは良正兄弟とともに将門と抗争を続けた。
940年3月(天慶3年2月)に下野掾・藤原秀郷[9]の加勢によって、ついに兄の貞盛と繁盛と従兄弟の工藤為憲[10]とともに、ついに将門を討ち取った。
将門鎮圧後に戦功によって下野介に任じられた。だが、長兄の貞盛と比較して恩賞や賜与された領地が少なく、良正は次兄の繁盛とともに朝廷に対して大いに不満をもった。
後に良正が亡くなると子の国兼が継ぎ、国兼の子の高兼(隆兼)・良泰、高兼の子の俊兼、俊兼の子の兼房と続いたが、兼房には嗣子がなかった。良泰の子の忠盛も嗣子がなく、国兼の系統は断絶した。
さらに、国兼の弟の貞時の子・兼頼(宗俊)、兼頼の子・宗行(宗時)、宗行の子の季基と良宗兄弟と続いたが、彼らに嗣子がないために貞時の系統はついに断絶した。
脚注[]
- ↑ 通常での貞時は薩摩平氏(鎮西平氏)とされ、良持の子とする(『坂東諸流綱要』)。また、忠通(良文流忠光の子)の子とする説もあり、系譜上の混乱が見られる。
- ↑ 『尊卑分脈』では、良正を高望王の末子の良茂の子として、公雅・公義・致成・致頼らの父として、三浦氏・碓井姓鎌倉氏(庶家に相模長尾氏・大庭氏・梶原氏など)・土肥氏(相模中村氏)らの祖とする。他の説では、良正は高望の庶子で将門の叔父とする説や、良兼の子に公雅を置き、致成・致頼を公雅の子とするなど系譜の混乱が見られ、系譜上の仮冒の疑いが濃い見方がある。
- ↑ 現在の茨城県つくば市水守
- ↑ 良兼は源護の娘を妻として、良望とは相婿同士であった。
- ↑ 現在の茨城県石岡市/かすみがうら市/土浦市
- ↑ 現在の茨城県常総市豊田大字
- ↑ 後に出家して、公雅(公雄/公正)と号した。
- ↑ 後に出家して、公連/公元と号した。
- ↑ 貞盛の母方の叔父にあたる。
- ↑ 常陸介の藤原維幾の子で、生母は高望王の娘。