
平貞方(直方)像
平 貞方・直方(たいら の さだかた/なおかた、969年(安和2年)? - 1053年(天喜元年)?)は、平安時代中期の武将。桓武平氏(武家平氏)の棟梁で、摂関家(藤原北家)に仕えた武家貴族(軍事貴族)である。官位は従五位上・検非違使・能登守・上野介・上総介・左衛門少尉。
曾祖父は平貞盛、祖父は平維将(維正)、父は平維時、兄は平仲方[1]、子は平維方・平貞通(貞道)・源頼義室・藤原維経室・藤原憲輔室ら、甥は貞清・貞元(ともに仲方の子)など。
概要[]
武勇に長じた剛の者であり、日本初の中世史の舞台である相模国高座郡鎌倉郷[2]に本拠地に居館を構えた[3]。大伯父(従祖父)の維叙の孫である信盛に嗣子がなくして逝去すると、代わって武家平氏の棟梁となった(相模平氏)。
1028年に坂東八氏の祖である平忠常[4]が反乱を起こすと、朝廷は貞方の父・維時を上総介に任命し、それを補佐する形で貞方は追討使に任命されて、軍勢を率いて東海・東山・北陸の三道の軍を統轄して討伐に向かった。だが、坂東地方の大部分を割拠して、士気往々の忠常の軍勢を攻撃するのを躊躇していた。そこで、貞方は持久戦で忠常を追い詰めるが、朝廷は貞方の戦局の詰めが甘いと判断し、ついに貞方を解任した。
朝廷は、かつて貞方の郎党であった陽成源氏(河内源氏)の源頼信(女婿の頼義の父)を甲斐守に任じて、改めて討伐を命じた。その一方、貞方の持久戦で疲弊していた忠常はただちに頼信に降伏して、収容されて京に護送される途中で美濃国・野上で病没した。
そのため、朝廷は頼信の功績を評価し、貞方は鎌倉を女婿である頼義に与える結果となり、貞方は陽成源氏の勃興の礎を築いた先達者と言える。そのため、陽成源氏の頼義流の系統はほとんどが(母系の)貞方の血筋を受け継いでいる[5]。
その後、貞方は京に戻って、家督を子の維方に譲り隠居した。1053年に86歳の高齢で老衰のために没した。彼の末裔は子の維方、孫の盛方、曾孫の時方、玄孫の将方(正方)と続いたが、将方に嗣子がなく、桓武平氏・維将流の直系は断絶した。そのため、桓武平氏の棟梁の座は、同族の維衡流[6]の伊勢平氏の惣領家である平家(六波羅氏)の棟梁の平清盛が就く結果となった[7]。
なお、伊豆国の伊豆北条氏[8]、武蔵国の熊谷氏[9]は貞方の末裔と自称(仮冒)した。
脚注[]
- ↑ 仲方は、武家貴族ではなく、京において公家貴族として文官の途を歩んだと推測される。997年に、仲方は、勅命で対馬国太宰大監(太宰府の三等官)として、異国来襲に備えた (『小右記』より)。
- ↑ 現在の神奈川県鎌倉市周辺
- ↑ 同時に武蔵国・伊豆国にも領地を持っていた。
- ↑ 将門の従子で外孫でもあり、千葉氏の祖。
- ↑ 徳川家康も含まれるという。
- ↑ 維将の末弟。
- ↑ もっとも、すでに貞方の子の維方の代に、族兄弟の平正盛(清盛の祖父)に桓武平氏の棟梁の座を譲った説もある(あるいは孫の盛方が平忠盛(正盛の子、清盛の父)と平氏惣領家の座を争って、敗れた説もある)。
- ↑ 阿多美氏/阿田見氏/熱海氏とも呼ばれる。実際は物部姓または中臣姓(あるいは日下部姓)・伊豆国造(伊豆直/伊豆宿禰(中臣鎌子(真人の子)・黒田父子と同人物とする説もある)、藤原氏と同族)の末裔の阿多美聖範(湯走権現禅師)の系統で、後に「平氏」を冠とした。その庶家は伊豆長崎氏である。
- ↑ 実際は丹姓(丹治/丹治比)の系統である私市氏(きさいちし)の末裔で、武蔵久下氏と同族である。