張脩(ちょうしゅう、? - 189年?)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。道教系の五斗米道の実質的な祖[1]。「張修」とも呼ばれる。
概要[]
巴郡巫県[2]の人。漢中郡[3]で教祖となって勢力を持っていた。
188年に、8千人の東州兵を率いた益州牧の劉焉から別部司馬に任命された。同時に劉焉が派遣した沛郡豊県[4]の人で、道教系の鬼道教団の指導者である張魯とともに、漢中郡太守の蘇固(扶風郡[5]の人)を攻め滅ぼして、蘇固をはじめその一族を皆殺しにした。
しかし、蘇固の忠実な配下であった従事の趙嵩[6]は張脩を激しく恨み、わずかの手勢を率いて張脩の本営に襲撃して、張脩の手勢十数人を斬り捨てたが、多勢の張脩の軍勢に取り囲まれて、あと一歩で張脩を殺る寸前であったが、壮絶に斬り死にを遂げた[7]。
さらに同じく蘇固の忠実な配下であった門中掾の陳調[8]は若くして、遊侠を好んだが同僚の趙嵩が張脩によって非業の死を遂げると、100余人の仲間を率いて張脩を襲撃した。陳調の攻撃ぶりは凄まじく、多くの配下が討ち取られた。しかし、あと一歩で張脩の本営前で、陳調も趙嵩と同様に壮絶な死を遂げた[7]。
非業の死を遂げた趙嵩・陳調の働きぶりで、その様子を傍観した張魯は両人の功績を認める碑を建てて、張脩を襲撃して見事にこれを殺害して、張脩が創設した五斗米道の基盤を奪い取り、郷里で眠っている鬼道教団の教祖である祖父の張陵(張道陵)と177年に没した父の張衡[9]を五斗米道の初代・第2代目の教祖として祀ったのである。
脚注[]
関連項目[]
- 劉焉
- 張魯