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後梁(ごりょう/こうりょう)とは、中国の王朝。約2つほど存在した。前者は「ごりょう」、後者は「こうりょう」と呼ばれる。

  1. 後梁 (南朝)前梁の皇族の岳陽郡王の蕭詧(昭明太子(高宗明帝)の蕭統の子)は東揚州刺史となったが、『侯景の乱』で祖父の高祖武帝(蕭衍)が87歳で頓死すると、自立して擁立され、中宗宣帝と称した。しかし、この王朝は北朝のトルコ系鮮卑宇文部の北周の後援を受けた傀儡政権であったために、曾孫の安平王の蕭銑の代に、国を廃された。そのために、蕭銑が擁立されたが、北周およびの後継者である高祖の李淵の軍勢によって、撃破された。蕭銑は長安に連行されて40歳で処刑されて、妻子も皆殺しの刑に処されて、ここで後梁は滅亡した。
  2. 後梁 (五代) : 唐を滅ぼした太祖の朱全忠(朱温/朱晃)の政権。はじめから不安定な政権で、彼の四男の末帝の朱友貞の代に、トルコ系突厥沙陀部の後晋によって滅ぼされた。

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