日本通信百科事典
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江戸幕府を開いた家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、天文11年12月26日(1543年1月31日) - 元和2年4月17日(1616年6月1日))は、室町時代末期~戦国時代の武将・戦国大名で、松平惣領家(安祥松平家)の第8代目の当主で、徳川氏(悳川氏)の祖として、江戸幕府の初代征夷大将軍となった。

または、貿易を奨励したので、「貿易将軍」とも呼ばれた。

概要[]

幼名は竹千代、通称は次郎三郎あるいは、三郎。初名は元信/元康

三河国の松平氏惣領家の7代目の当主の松平広忠於大の方水野忠政の娘)との間の嫡長子として誕生した。異母弟に内藤信成、異父弟に松平康元(久松勝元)[1]松平康俊(久松勝俊)[1]松平康勝(久松定勝)兄弟がいる。

子は信康[2]秀康(結城秀朝)秀忠忠吉(忠康)・信吉信義)・忠輝・松千代・仙千代・義直義知/義利/義俊)・頼宣(頼将/頼信)・頼房ら。

生涯[]

幼少時代[]

三河松平氏は新田氏上野源氏)一門の義光流世良田氏の庶家であり、三河松平氏の実質的な祖である信光が奥三河の山間地帯で勢力を張り、三河平野に進出した。

家康の祖父である松平清康は、自ら「世良田清康」と称してが勢力を拡大して、戦国大名へと成長した。しかし、『森山崩れ』で、父の阿部大蔵(定吉)を処罰したと思い込んだ弥七郎(正豊)によって暗殺された。享年26。以降は庶家の十八松平家と、松平氏配下の豪族は相次いで離反したために、尾張国織田信秀に圧迫されて、安祥城を奪われるなど松平氏は徐々に勢力を失っていった。

非業の死を遂げた祖父の清康の後を継いだ家康の父・広忠が家督を継いだ。さらに水野氏を亡父・忠政から継いだ水野信元(於大の方の異母兄)が織田氏に臣属したため、父・広忠は妻の於大の方と離縁して、家康は生母と生き別れた。しかし、松平氏は衰退しており、命脈を保つには近隣の大勢力に依存するために、その結果として広忠は駿河国遠江国守護である今川氏足利氏下野源氏)流三河吉良氏三河源氏)一門)に従属した。時の当主は今川義元で、海道一の弓取りの異名を持つ大々名であった。その間に広忠は義元の配下の将として、信秀と激突して、広忠の族父の信吉(隼人佐)と族弟の勝吉(伝十郎)父子・本多忠豊(平八郎忠勝の祖父)などが戦死を遂げて、敗走した(『小豆坂の戦い』)。

条件として、義元は松平氏の従属を容認する見返りに人質を要求して、子の竹千代が駿府城にいる義元のもとへ送られることになった。しかし、竹千代は継母の父である戸田康光(弾正)が信秀と通じたために、尾張国に連行されて、人質とされた。そして、信秀は広忠に従属を迫ったが、広忠は義元に対する忠誠を貫いてこれを拒否した。その間に竹千代は信秀の三男である吉法師(後の織田信長)と出会ったという。その2年後の春3月に広忠は、隻眼で有名だった近侍の岩松八弥によって、祖父と同様に26歳の若さで暗殺されてしまい、岡崎城には義元の武将である朝比奈泰能が岡崎城代として入城した。その後、人質を奪われた義元とその軍師の太原雪斎(崇孚)は一計を案じて、19歳になる安祥城主の織田信広(信秀の庶長子)を攻めて、これを生け捕りにした。そして、信広と竹千代の人質交換が実施され、義元は竹千代を取り戻した。太原雪斎が竹千代の養育係に任命され、竹千代は雪斎から兵法などの学問を学んだ。

この間に、竹千代は鷹狩りにの最中に獲物を追った鷹が今川氏の家臣の孕石元泰(主水佑)[3]の館に入ったために、竹千代一行は主水に鷹が入ったことを述べたが、たびたび竹千代の鷹の糞による被害を受けて激怒した主水は「この三河の小倅が、分を弁えよ。お前にはもう飽きたわい、鷹は返さんぞ!」と竹千代に対して罵詈雑言を叫んだために、後年の家康の恨みを買う結果となった[4]

成長した竹千代は元服して、上記の遠祖の信光と今川義元の一字をそれぞれ貰って、松平元信と名乗り、一時的に岡崎城に帰還することを許された。その滞在中に宿老の鳥居忠吉からひそかに武器や食料を蓄えた倉庫を披露された。さらに野良に精を出した家臣の近藤某を見ると、その苦しい暮らしぶりを察して、言葉を述べて近侍に採り立てた。

駿府城に帰還した元信は、義元の娘で今川一門の関口親永(瀬名義広)の養女である於鶴の方(築山御前)と結婚した。その後、寺部城攻めで、その城主の鈴木重教を討ち取る初陣を飾った。

師の雪斎の死後に、元信はたまたま信長(信秀の嫡子)の一字である「」を忌み嫌った義元によって、「元康」に改称された。さらに義元は衰退した惣領家の足利将軍家に代わって、「足利義元」と称するために、上京して自らが室町幕府の後継者となるべく、2万5千人を動員して、京へ向けて大軍を興した。時に1560年の夏4月であった。

まずは道中の尾張国の織田信長を攻撃することになったが、このとき、元康は先鋒大将となり、織田方の各砦を攻略した。その間に義元は悠々と進軍して、圧倒的な軍事力で織田方の支配地を次々に攻略していった。義元が田楽狭間(桶狭間)で休憩していた際に、雷雨が激しく鳴り響き、大雨が降り出した。この時、今川軍は既に主力を前戦に押し出しており、周囲には2千5百人の少数の兵力しか残していなかった。

事前に梁田政綱の情報を得て、3千の軍勢を率いて桶狭間山の頂上その隙を伺った信長の軍勢が突然攻めかかり、意表を突かれた今川の軍勢はあっという間に崩壊した。肥満体の義元は馬に乗って逃走したが、真っ白の甲冑で目立っていたため、すぐに発見されて織田方の服部一忠(小平太)と毛利良勝(新助)[5]によって討ち取られた(『桶狭間の戦い』)。享年43。

横山版の徳川家康

独立・遠江国攻略[]

大高城にて義元が討たれた知らせに元康は動揺するが、その間に生母の於大の方と阿久居城で再会して、そのまま岡崎城に帰還するも野武士連中に襲撃されて、わずかの手勢を率いて岡崎城付近にある松平氏ゆかりの大樹寺に立ち籠り、先祖の前で自刃を試みた。しかし、第13代目の住職の登誉天室上人によって「そなたは民百姓を守り、乱世を終焉すべく天命を背負って生き延びるべきである」と諭されて、僧兵に護衛されて元康は、無事に岡崎城に帰還した。岡崎城代の山田景隆(川手景高)[6]は元康を恭しく迎えたという。

元康は父・義元の後を継いだ氏真に弔い合戦をするように進言するが、臆病な氏真はこれを聞き容れなかった。これを機会に元康は氏真からの独立するために行動を起こして、まず昔なじみでもあった信長と同盟を結ぶために清洲城に赴いて、同盟を結んだ(『清須同盟』)。さらに信長の提案で、生母の於大の方を引き取り、その夫の久松俊勝(定俊/長家)を家臣に加えた。そして義元の外甥(姉の子)で、氏真の外従兄でもある鵜殿長照を攻撃して、これを討ち取っている。この行為に激怒した氏真は、元康の義理の岳父である一族の関口親永を激しく詰問して、これを自刃させた。これをきいた家康は、ひそかに妻の於鶴の方と嫡子の竹千代(信康)を取り返すために、石川数正を派遣して、氏真と交渉させてこれを取り戻している。

さらに、本證寺の第10代目・空誓(蓮如の孫)が中心となって真宗門徒に檄を飛ばし、三河国で一向宗の反乱が起こった。さらに家康の家臣である本多正信をはじめ、渡辺半蔵(守綱)[7]・蜂屋半之丞(貞次)[8]らが相次いで、一向宗に従いたために、家康自らが出陣して戦った。最初は家康に不利であったが、宗教の恐ろしさを知った家康は、生母の於大の方の忠言もあり、懐柔策に全身を注いだ。その甲斐があって、『馬頭原の戦い』で家康の軍勢が、一向宗を撃破したことで、家康の優位に立ち、このため渡辺半蔵・蜂屋半之丞らは家康に帰参して(正信は出奔した)、これを許して事態は収まった。同時に家康は、本證寺に対しては厳格な対応で処遇した。

その後、元康は、徳川家康として改称した。さらに、朝廷から三河守に叙任されている。この間に家康は嫡子の信康と信長の娘の徳姫と婚姻を実現させた。

名目上の朝廷からの信任を受けた家康は三河国を統一して、武田信玄晴信)と同盟して、勢いに乗って今川領へ攻め込んだ。氏真は暗君とされており、統率力は皆無に等しかった。そのため、氏真は駿府城から脱出して、武将の朝比奈泰能の居城である掛川城に逃れた。さらに妻の父である北条氏の当主の北条氏康をも頼ろうとしたが、家康の義理の叔父(叔母の婿)である酒井忠次の攻略を受けて、掛川城を出て家康に降伏した。こうして、守護としての今川氏は滅亡したのである。

若き日の家康

武田氏との戦い[]

家康が氏真を軍門に降らせた後に、その頃、京では室町幕府の最後の将軍の足利義昭が、信玄・朝倉義景[9]・本願寺一向宗などに信長包囲網を号令していた。ことに信玄も義兄の亡き義元のように上京して、征夷大将軍として幕府を築く構想をもっていた。

その間に、信長の要請で、近江国姉川に向かい、朝倉義景・浅井長政の連合軍と激戦し、家康は朝倉軍を蹴散らして、信長に対して優勢であった浅井軍の背後を攻撃して、ついに、連合軍を討ち破ったのである。信長から「三河軍団の強さは天っ晴れである」と称賛された(『姉川の戦い』)。

やがて、信玄は室町幕府を助けるという大義名分のもと、徳川領の遠江国へ攻め込んだ。最強と恐れられた武田軍を正面から受け止めるのは至難の業と見た家康は、岡崎城から移転して自ら浜松城に籠城して信長に援軍を要請した。しかし、家康の意に反して信玄は浜松城を攻略せにず、そのまま尾張国へ進軍していった。これを侮られたと受け取った家康は激高するも、信長が派遣した佐久間信盛から信長の厳命による「武田軍に対して、絶対に討って出るな」と釘を刺されたにもかかわらず、癇癪持ちで短気な家康は、血気にはやって浜松城から出て武田軍を追撃すべく、討って出たのである。

祝田(ほうだ)の坂を降って、これを待ち構えた武田軍は軍を整えて三方ヶ原で待ち伏せしており、慌てて武田軍を追いかけて隊列が乱れていた徳川軍は、信玄の軍勢にいとも簡単に敗れてしまい、恐怖に駆られた佐久間信盛は水野信元(家康の外伯父)とともに武田軍と戦わずに、三河国と遠江国の境目にある浜名湖付近の今切まで逃げる有様であった。信盛・信元とともに援軍の将として派遣された平手汎秀(政秀の孫)は壮絶な戦死を遂げた。武将の本多忠真(平八郎忠勝の叔父)などが戦死して、敗走した家康は死を覚悟したが、付き従った夏目吉信[10](広次[11]/正吉入道[10])に諭されて、その乗馬の尻に槍で引っ叩いて、自ら殿軍となった吉信は家康の身代わりとなって戦死を遂げ、無様なままの家康はそのまま逃げ戻った(『三方ヶ原の戦い』)。

そのときの家康は無敵の武田軍のあまりの恐ろしさのあまり、馬上で糞を漏らしたといわれる。帰城した際に家臣の本多重次(鬼作左)から「殿、切糞(せつなぐそ)ですな~!」と笑われたが、これに家康は「持参した焼き味噌がこぼれただけよ!」と強がって、城門を全て開け放ち、篝り火を焚かせて『空城の計』として見せかけて、そして、家康自身飯を平らげて、まもなく城の広間で大の字で寝てしまったという。

幸い、武田軍はこれは計略があると判断してこれ以上は追撃せずに、これを聞いて安堵した家康はあまりの恐怖心・羞恥心から、糞を漏らした自分自身の肖像画を絵師に描かせ、以降から短気で軽はずみな自分への戒めとした。しかし、この直後に信玄が病に倒れ、信濃国駒場で労咳のために逝去した。享年54。そのため武田軍は甲斐国へ撤退し、家康は九死に一生を得た。

『長篠の戦い』[]

逝去する前に信玄は自らの死を、3年間も隠すよう遺言した。しかし、信玄ほどの名の知れた人物の訃報が広まらないはずはなく、瞬く間に信玄の死は知れ渡った。信玄の後を継いだのは4男の勝頼であり、ことに一族で姉婿でもある穴山信君(梅雪)とは犬猿の仲であった。このように勝頼は上手く家臣をまとめることができないまま、勝頼は信頼する従弟の信豊と腹心の真田昌幸とともに強引な統治を実施したために、徐々に武田氏は衰退していった。

翌年に家康は犬居城で昌幸と対峙したが、大雨のために撤退をせざるを得なくなり、この隙を狙って昌幸は追撃して家康は命からがらに浜松城に逃げ戻った。さらに昌幸は家康の嫡子の信康の近侍である大賀弥四郎(大岡忠賀)と密通して、の医師である減敬(滅敬)を派遣して、徳川氏の内紛を衝こうとしたが、酒井忠次の機敏で、減敬は野中重政に斬られ、大賀弥四郎も山田八蔵の密告で、大久保忠世に捕らわれて、鋸の刑を受けて無残な最期を遂げ、妻子も処刑された。

こんな状況の中で、昌幸の謀略が失敗したこともあり、焦った勝頼は家康を滅ぼすために、おなじ甲斐源氏に属する小笠原長忠(信興/氏義/氏助)[12]を城主とする高天神城を総攻撃してきた。家康は軍監として派遣した三河大河内氏一門の大河内政局(まさちか、源三郎)の援軍要請を聞いて、高天神城に向かったが長忠が豹変して、政局を捕らえて投獄して、勝頼に降伏した。その後も武田軍による小規模な侵攻が続き、家康は徐々に追い込まれていった。そして、機を見計らって遂に勝頼が本格的な侵攻を始めた。

その標的は武田氏から徳川氏に寝返った奥三河の作手の土豪で、家康の女婿である奥平貞昌信昌)が籠城する長篠城であった。勝頼は一族の穴山信君に命じて、猛攻撃したが、貞昌の堅固な指揮で城は堅く、なかなか陥落しなかった。そこで信君は作戦を変えて、金堀り人を呼んで水路を絶った。これにより一気に形勢が変わり、長篠城は落城寸前に追い込まれた。これに危惧した貞昌は家臣の鳥井強右衛門(勝商/勝高)に命じて、家康に事態の深刻さを伝言した。しかし、長篠城に帰還する強右衛門は途中で武田軍に捕らわれて、信君の前に曳きだされた。信君は強右衛門に「織田・徳川軍の連合軍は来ない」と叫ぶように命じた。しかし、強右衛門は「皆の衆、連合軍は間もなく来まするぞ!」と叫んだために、激怒した信君は強右衛門を磔の刑に処した。これを見た家康の隠密で、武田氏の家臣の落合道次(左平次)[13]は息だえる直前の強右衛門に向かって「貴殿の勇敢を称えて、わが家の家紋として貴殿の身体を象徴としとうござるが…」と述べて、これを聞いた強右衛門は微かに笑みを浮かべて息だえた。

同時に、家康は信長に援軍を要請しており、信長はこれを承諾して3万人ほどの大軍を率いて出陣した。援軍来襲との報を聞いた勝頼は長篠城には最低限の兵を残して設楽原へ移動し、陣を敷いた。同じく織田・徳川連合も陣を敷いており、馬妨柵や馬妨堀などを設け、大量の火縄銃を準備していた。戦が始まると、武田軍は騎馬で突撃を開始した。対する連合軍は冷静にそれらを鉄砲で狙い、確実に仕留めていった。この間に家康の義理の叔父である酒井忠次が勝頼の本陣の裏手に回り、鳶ノ巣城を守る勝頼の叔父である河窪信実の退路を断って、これを討ち取った後に総攻撃ののろしを挙げた(『鳶ノ巣城の戦い』)。焦った勝頼は前を強行突破しようと試みたが、上記で述べた一族の穴山信君が勝手に前線を離脱したことで、馬妨柵に防がれ鉄砲の餌食となった。勝頼自身は退却に成功したが、勝頼を逃すために山県昌景馬場信春内藤昌豊など大半の宿老たちが壮絶な戦死を遂げた。これによって武田氏の衰退は決定的となり、家康にとって武田氏の存在は以前ほど脅威ではなくなった(『長篠の戦い』)。

服を着た晩年の家康

武田氏滅亡[]

『長篠の戦い』の惨敗によって、武田氏の滅亡はもはや時間の問題であった。

翌年に、家康は武将の大久保忠世に二俣城を攻略させて、城主の依田信蕃に対しては、3日間の期限付きで食糧を護送して、城を明け渡させた。さらに高天神城を攻略して、城主の横田尹松は以前に小笠原長忠が幽閉した大河内政局を匿ったこともあり、家康から感謝され、尹松が高天神城から討って出ると、家康はこれを見逃している。しかし、政局を投獄した長忠に対しては、報復するように容赦なく自刃を命じている。長忠によって8年間も多湿な岩牢(石牢)に幽閉された政局はそのときは衰弱していたが、長年の念願である家康に目通りを果たすと、感激のあまりにそのまま倒れた[14]

この間に、家康の義理の叔父である酒井忠次と対決した信康との確執は決定的となり、身の危険を感じた忠次は安土城の信長のもとに大久保忠世とともに赴いて、「信康謀反」の事実を述べたために、やむなく信長は女婿の信康に自刃を命じた。この処置は家康にとっても人生で最も過酷な試練であったが、結局は信康は忠次の魔手から逃れずに、大久保忠世の居城である二俣城で自分は冤罪であると言い遺して、自刃して果てた。享年21。このことで家康は忠次も含めて、信康を間接的に死に追い詰める要因を作った真田昌幸を終始、怨んで最後まで許すことはなかった。

その一方、特に天正6年(1578年)の高天神城攻略中に家臣の大須賀康高の甥の弥吉(小吉)が、抜け駆け行為をしたために、これを聞いた家康は激怒して、弥吉は恐れて本多平八郎(忠勝)のもとに逃げて助命を嘆願したが、家康は許さずに弥吉に切腹を命じた事変があった。弥吉は享年22であった[15]

数年後に、二俣城・高天神城が陥落したこともあって、勝頼は家康によって徐々に追い込まれていった。さらに、以前から勝頼と犬猿の仲でもあった一族で姉婿である駿河国江尻城主の穴山信君が密かに家康と通じ、さらに妹婿でもある木曾氏当主である木曾義昌は、公然と反旗を翻した。この状況を見て家康と信長は好機と捉えて、大軍を動員して武田氏を攻めた。信長は今子桓と謳われた次嫡子の信忠と武将の滝川一益に命じて、攻撃させた。美濃国岩村城主で武田氏とおなじく甲斐源氏一門の秋山信友と勝頼の異母弟である高遠城主の仁科盛信を除いてほとんど抵抗はなく、織田軍の手に落ち、信忠は信濃国中部の諏訪神社をすべて焼き払ったという。

家康も大規模な抵抗は受けずに進軍していった。その頃、勝頼は新居である新府城を焼いて、姻戚関係にある岩殿城主の小山田信茂を頼ったが、その信茂にも信君の手が伸びて、裏切ったために、最終的に勝頼は嫡子の信勝とともに天目山で自刃あるいは、滝川一益配下の伊藤永光(伊右衛門)に討たれてしまい[16]、ついに、宿敵の武田氏を滅ぼしたのである。

本能寺の変[]

信長の武将である羽柴秀吉毛利氏配下の備中国高松城主清水宗治の攻めが大詰めを迎えた頃に、信長の武将である明智光秀が援軍として赴くことが決まった。援軍が出立したその日、信長は本能寺で公家の接待をしており、家康は信長の招待を受けてわずかな供回りと堺で観光を楽しんでいた。光秀の軍勢は中国地方へ向けて出発したはずだったが、突如方向を変えて信長のいる本能寺を襲撃した。信長は多勢無勢に敗れ、自刃に追い込まれ、二条城にいた信忠も自刃して果てた。

家康はこの知らせを聞いて慌てふためいて動揺して、知恩院に駆け込んで自刃しようとしたが、徳川四天王のひとりである本多忠勝(平八郎)をはじめとする家臣たちに説得され、岡崎城へ逃げ帰ることにした。しかし、主要な街道はすでに明智軍が目を光らせており、危険であった。そこで家康は服部半蔵(正成)と元三河武士で商人である茶屋四郎次郎(清延)の協力を得て伊賀忍者・甲賀忍者に加勢を要請して、200名程度が集まった。伊賀国を越えた家康一行は伊勢国白子(現在の三重県北部)へ辿り着き、そこからは海を渡って三河国へ帰った。同時に穴山梅雪も家康とは別行動で甲斐国に逃れようとしたが、山城国宇治田原で土賊によって殺害された。享年43。

家康は、すぐに光秀征伐の兵を挙げるも、中国大返しで京まで引き返してきた羽柴秀吉が電撃的に光秀を討ち破ってしまった(『山崎の戦い』)。結局、家康は京にも至らないうちに軍を退かせた。

『小牧長久手の戦い』[]

信長が自刃した頃に、上野国の滝川一益が北条氏政氏直父子に攻められて敗走し、領土を失陥した。さらに甲斐国の河尻秀隆(肥前守)は、武田氏遺臣の三井弥一郎(吉盛/正武/昌武)率いる一揆勢に敗れて自刃して、信濃国を支配した森長可碓井姓森氏)は領地を捨てて逃走した。家康はこれを好機と捉えて甲斐国と信濃国に進出して、上杉景勝・北条氏政、そして家康が出陣した。家康は一気に上田城付近まで進軍するが、ここで、亡き信康の件も絡んで宿敵である真田昌幸の強固な反抗に遭った。攻め手の平岩親吉らは昌幸に大敗して、家康側に不満が残る形での和睦が成立した。信濃国と甲斐国を攻略して大々名となった家康であったが、その強大さに警戒した羽柴秀吉が、家康に対して、繰り返し臣下の礼を行なうよう要求してきた。一方、主家の織田氏を超える領土と権力を手にした秀吉に対して、信長の4男の織田信雄は、その行為に不満を抱いていた。そこで、信雄は家康と通じて打倒秀吉を目指した。二者の軍勢は小牧山城や長久手付近に陣を張り、秀吉軍と対峙した。家康は「機動防衛」を活かして、本多忠勝らの活躍で有利に戦いを進めて、秀吉方の森長可とその岳父である池田信輝(恒興)と元助父子らを討ち取って、戦術的に勝利した。しかし、秀吉軍は先に信雄を攻めてこれを屈服させ、大義名分を失った家康は軍を退かせざるを得なくなり、戦略的に秀吉に敗北する流れとなった(『小牧長久手の戦い』)。

秀吉に臣属[]

『小牧長久手の戦い』での敗戦後も家康と秀吉の対立は続いていた。秀吉は自身の実力を世間に見せつけるためにも家康を従属させることが必須だったが、家康は榊原康政(小平太)に命じて秀吉をなじる看板を立てて、秀吉を挑発するなど簡単に応じなかった。そこで秀吉は既婚者であった妹の於旭の方を強引に離縁させて、年代の近い家康に嫁がせたが、それでも家康は応じず、最終手段として、秀吉は母親の大政所をを家康に人質として送ってきた。さすがの家康も応じずにはいられず(家康の家老の本多重次は大政所の住居に薪を積ませて、これを燃やす行為を見せたという)、自ら京に赴いて秀吉に臣下の礼を行なった。

その後の秀吉は権勢を欲しいがままにし、相模北条氏北条伊勢家)を滅ぼして、奥羽の覇者である伊達政宗を降すなどついに天下を統一した(『小田原征伐』)。ここで秀吉は家康の勢力を弱体化させるために、関東地方に領地替えを提案した。つまり、北条氏の旧領への転封であった。それも、家康は前向きに考えて、板倉勝重に命じて、かつて太田道灌(資長)が築いた江戸城を改築して、江戸周辺の開拓を奨励した。同時に家康自らも開拓の作業や農業に精を出したという。

その後、秀吉は加藤清正小西行長らに命じて、朝鮮への出兵を実施するが、戦術的勝利は収めるものの戦略的勝利には至らず、未征服のままに終わった。この頃、家康は五大老のひとりとして肥前国の名護屋城にいたが、最後まで朝鮮へは渡らなかったために兵力を温存することができた。間もなく伏見城にいた秀吉が病死して、遺言によって家康は前田利家とともに、秀頼[17]の補佐を遺託された。

天下分け目の戦い[]

秀吉の死後、脅威がなくなった家康は躊躇なく天下を狙い始めた。そのことは豊臣家五奉行筆頭格の石田三成らとの対立に顕著に現れて、調停役でもあった利家が逝去したこともあり、三成を嫌った加藤清正・福島正則・浅野幸長らが七将らが「石田三成襲撃事件」を起こした。襲撃を受ける直前に佐竹義宣から救助された三成は義宣の忠告で、家康の邸宅へ逃げ込み、領地の近江国佐和山城に蟄居した。これによって事態は収まったように見えたが、いつ三成が挙兵してもおかしくない状況であった。

家康は逆にこれを利用して、自分に敵対心を持つ者を炙り出そうとした。まず、陸奥国会津の上杉景勝長尾顕景)を挑発して、その家臣の直江兼続[18]がいわゆる『直江状』といった返書を家康に送り、宣戦布告した。これを聞いた家康は、宿老の非業の死に涙を呑んで「逆賊を討つ」という名目で下野国小山に出陣した(『会津征伐』)。家康の読み通り、家康軍が関東地方に至ったあたりで、石田三成が挙兵したことを家康が伏見城代に命じた家老の鳥居元忠(忠吉の末子)の知らせが入った。しかし、元忠も壮絶に戦死を遂げた(『伏見城の戦い』)。これを聞いた家康は、次男の秀康に小山で上杉軍に対する総指揮を委ねて、すぐに軍を引き返して美濃国の関ヶ原へ向かった。対する三成軍も関ヶ原に先に向かっており、両者は早朝の霧の中で睨み合った。先鋒の福島正則が戦を仕掛ける予定であったが、ここは家康の家老である井伊直政が女婿の松平忠吉(家康の4男)の名誉を与えるために、抜け駆けで、忠吉を連れて宇喜多秀家の軍勢に対して、鉄砲を撃ちかけた。初戦は西軍(三成軍)が優勢であったが、徐々に横這いが続いた。しかし、東軍の伝令が誤って家康の愛馬にぶち当たって、そのまま立ち去ったのを見て生来の癇癪を起こした家康が腹癒せに刃を抜いて自軍の旗を切り捨てる有様であったが、家康を諫めた忠勝に鉄砲隊に命じて、内通した小早川秀秋の陣営に被弾した。家康に怯えた秀秋は突如に裏切り、大谷吉継(豊臣秀隆/羽柴秀隆)らの軍勢を襲った。これによって西軍は崩壊した、三成は伊吹の山中に逃げ込んだが、後に田中吉政に捕縛されて処刑された。

こうして、家康はこの勝利によって実質的に天下を掌握し、豊臣家は近畿地方の大々名に没落した。この勝利を讃えられ、家康は征夷大将軍に任じられ、ここに江戸幕府が開かれた。

天下統一へ[]

『関ヶ原の戦い』で反抗勢力を一掃した家康には、もはや、豊臣家以外に敵は存在しなかった。そこで家康は淀君[19]を人質に出すか大和国30万石への転封かどちらかを選ぶように秀頼に持ちかけた。秀頼はこれに応じかけるも、その生母の淀君が頑な拒んだのであった。やがて、家康は3男の秀忠に将軍職を譲り、駿府城で「大御所」として、「院政」を敷いた。

この間に、金山奉行で家康の6男の忠輝の付家老でもある大久保長安が、イスパニアに日本を売国するという密接な計画が長安の死後に露見された。これを密告したのは忠輝の岳父の伊達政宗ともいわれている。これを聞いて激怒した家康は、本多正純(正信の長男)に長安の身辺を厳重に調査して、長安の長男の藤十郎ら7人の息子を自刃を命じて、晒し首とした。さらに、長安の女婿である服部正重(半蔵正成の次男)を改易にして流罪とした。

数年後に、二条城で成長した秀頼と会見した家康は、凡庸である嫡子の秀忠を脅かす器量を持った秀頼に危惧して、将来に禍となる判断して、豊臣家が修繕した寺院の釣り鐘に書かれていた「国家安康」という一節を「家康という字を引き裂いて、家康を呪っている」と難癖を付け、秀頼を詰問した。

これに激怒した淀君は大野治長に命じて家康にとっても因縁の宿敵ともいえる昌幸の次男の信繁(幸村)後藤基次(又兵衛)らを招聘して、職にありつけない浪人やキリシタンとかぶき者を兵として集めて、大坂城に籠城した。豊臣家と徳川氏との調停役をつとめた片桐且元が淀君や大野治長に襲撃されて、大坂城を撤退して領土である摂津国茨木城に籠城して、弟の貞隆に命じて家康に援軍を要請した。これを聞いた家康は大坂城を討伐すべく軍隊を動員した。しかし、圧倒的な兵力にかかわらず嗣子の秀忠の信繁が総指揮する真田丸攻略の敗戦やその他豊臣方の武将に苦戦が相次いで、大坂城が陥落しないこともあって、ついに且元に命じて、三浦按針(ウェィリュウム・アェドゥムズ)がヨーロッパで製造した大砲を使用して、大坂城の本城にめがけて発射した。効果は抜群で、天守閣に命中した一弾が淀君の侍女数人が死亡した。これに焦った淀君は家康に対して和議に応じた。外堀を埋め、兵を引き、真田丸などの砦を破壊するという条件で成立した(『大坂冬の陣』)。

しかし、家康は内堀も埋めてしまい、大坂城を丸裸にした。淀君と大野治長らはまたも憤慨し、再度兵を募って挙兵した。しかし、淀君の叔父である有楽斎とその嫡子の頼長(左門)と、その従兄の常真斎(信雄)が家康に帰順したこともあって、今度は前回ほどの抵抗はできず、秀頼と淀君は兵力差によって敗れた。しかし、家康も茶臼山で信繁の猛攻撃を受けて、狼狽しつつ命からがらに逃亡した(信繁はその後、壮絶な戦死を遂げた)。それでも、秀頼と淀君はついに観念して大坂城内の倉庫で自刃して果て、大坂城は炎上した。ここに家康は豊臣家など敵対勢力を滅ぼして、完全に天下をその手中に収めた(『大坂夏の陣』)。

戦後に、かつて信長・秀吉に仕えた古田織部重嗣父子が、豊臣家と内通して討幕を目論んだ疑いで、織部父子に自刃を命じている。

また、6男の忠輝が岳父の政宗に同伴されて「お父上、豊臣家も滅びました。以降も貿易をなされるのなら、わたしを大坂城主にしていただきとう存じまする」と大言を吐いたのである。これを聞いた家康は激怒して、忠輝に対して勘当を申しつけて、忠輝は武蔵国深谷に蟄居した。

翌年に駿河国田中城で鷹狩りした家康は、その夜に突如、高熱を出して倒れた[20]。その間に忠輝は父・家康に面会を求めたが家康は許さなかった。しかし、忠輝の茶阿の局の嘆願を受けたので、そこで家康は以前の信長から贈られた『野風の笛』を遺品として忠輝に贈るように申しつけた。

やがて家康は、秀忠や本多正信・正純父子ら重臣に看取られて死去した。享年76。

『蒼天航路』風の家康

脚注[]

  1. 1.0 1.1 (家康の異母弟の)松平家元(三郎五郎)と同人物という。
  2. 今川氏真の落胤とする異説もある。
  3. 藤原南家駿河工藤氏一門の駿河原氏の庶家の孕石氏の当主。
  4. 『家忠日記』『三河物語』
  5. 丹姓良兼流長田氏尾張平氏)一門尾張毛利氏出身。
  6. 上記の丹姓良兼流長田氏一門の尾張山田氏の一族で、良則の父。
  7. 嵯峨源氏渡辺氏一門の渡辺企(たくら)(基の父)の女婿の渡辺俊忠の末裔。
  8. 土岐氏美濃源氏)一門の蜂屋定親の女系の家系。
  9. 宇多源氏佐々木氏近江源氏)一門の六角氏の当主の六角義実の子、朝倉孝景の外孫で、その養子。
  10. 10.0 10.1 読みは「とみのぶ」とよばれ、河内源氏頼季流の夏目氏の当主である。
  11. 『松平家忠日記と戦国社会』編「戦国大名徳川氏の徳政令」(柴裕之・久保田昌希/岩田書院/2011年)235頁より。
  12. 小笠原氏興の子。
  13. 榊原清次(小平次)の次男で、物部姓十市氏流信濃中原氏の後裔の落合道久の婿養子。
  14. 恩賞として遠江国山名郡稗原郷(現在の静岡県磐田市稗原大字)を与えられた。間もなく治癒した政局は、出家して皆空入道と称した。後年に家康の命で、『小牧・長久手の戦い』で壮絶な戦死を遂げたと伝わる。
  15. 『徳川実紀』
  16. 『津田小平次日記』
  17. 秀頼の実父は、家康・石田三成・大野治長などの諸説があるが、真偽の程は定かではない。
  18. 上記の信濃中原氏流越後樋口氏一門。
  19. 信長の娘で、浅井長政の養女とする説がある。
  20. 死因については「胃癌であった」や、「天ぷらを食べ過ぎて体調を崩した」など諸説がある。

関連項目[]

  • 劉備 : 家康と類似した人物。
先代:
松平広忠
松平氏第8代当主
1549年 - 1566年
次代:
徳川(松平)信康
先代:
-
徳川将軍家初代当主
1566年/1603年 - 1605年
次代:
徳川秀忠
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