惟任 康秀・惟住 康季(これとう やすひで/これずみ やすすえ、享禄元年(1528年)頃 - 永禄10年(1567年)以前)は、戦国時代の武将。
土岐氏(美濃源氏)流の明智氏一門の惟任氏の当主の惟任光頼の孫、頼秀(頼季)の子、明智光秀・定連(貞連)・高山満忠(次左衛門/長閒斎)[1]室の異母兄、秀光・康光の父。生母は家臣の進士信周(山岸晴舎)[2]の娘という[3][4]。
概要[]
彼は庶長子のために、父の家督を継ぎ、10歳前後ほども年がはなれている異母弟の光秀は惣領家である外祖父の明智光綱(光国/光隆)[5]の嗣子となり、それぞれの立場が異なった。
しかし、斎藤道三(秀龍)によって、明智氏の惣領家である土岐氏が没落すると、明智城も道三によって陥落されて、一族は四散した。
後に康秀は、同族の美濃肥田氏の肥田勝行とともに、道三の子の義龍(利尚/高政/玄龍入道/范可斎)、あるいは孫の龍興(義糺(よしただ)/義輔/義棟/義紀)に攻め滅ぼされて、子の秀光・康光とともに自害して果てたともいう。
脚注[]
関連項目[]
- 明智光秀
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