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新田義重

新田義重像①

新田義重公

新田義重像②

新田 義重(にった よししげ、1114年(永久2年)[1] - 1202年2月8日(建仁2年正月14日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。通称は新田太郎、法名は上西入道、官職は大炊介/木工介/左衛門尉/鎮守府将軍[2]。ちなみに義重自身は浄土門(浄土教)を信仰していた。

陽成源氏河内源氏)流の新田氏上野源氏)の祖・新田氏惣領家の初代棟梁。八幡太郎義家の孫、源義国義頼)の庶長子で、生母は藤姓足利氏の足利成綱の娘[3]。 異母弟に源姓足利氏下野源氏)の祖の足利義康義泰/義保)がいる。

概要[]

はじめは、父・義国とともに下野国足利荘(現在の栃木県足利市周辺)を開墾したが、これは次弟の義康が継承し、足利荘司となった。義重は父とともに新たに上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)と同国碓氷郡八幡郷(現在の群馬県高崎市八幡町)などの開拓事業に乗り出し、そこを本拠としたため「新田太郎」と称し、新田荘司となった。

しかし、そのために同族で従子でもある武蔵国源義賢木曾義仲の父)と秩父氏[4]および、母方の実家である下野国の藤姓足利氏という諸勢力と対決する結果になった。

その一方、関東南部の相模国高座郡鎌倉郷を本拠地とし、義賢の異母兄である源義朝(異母弟・義康と相婿同士)・義平[5]父子とは盟約して、その娘の祥寿姫を義平に嫁がせている。また甥の矢田義清(義康の庶長子)を婿養子に迎えて、義清と義重の娘との間に庶長子・山名義範(太郎三郎/三郎義節)を儲けている[6]

1157年(保元2年)、平家方で藤原北家九条流御堂流一門の花山院忠雅に申請して新田荘の立券に成功して、正式な新田荘司として就いた。当時の上野国司・藤原重家の舅が鳥羽院御願寺金剛心院の造営に深く関与をした藤原家成であり、前述の花山院忠雅の母の兄も家成であった。

ようやく、義重は敵対していた母方である藤姓足利氏・秩父氏らと本格的に武力衝突し、渡良瀬川の強行渡河作戦によってこれを撃破して(『秩父足利の戦い』)、北関東における地盤を固めた。

同時に親族の甲斐国武田氏常陸源氏/甲斐源氏)の棟梁である武田信義とも親交があり、信義の嫡子・石和信光に自分の娘を嫁がせている。後にこれが、族孫の源姓鎌倉氏相模源氏)の棟梁・鎌倉頼朝(義朝の3男)の義重に対する嫌悪感の要因のひとつとされている。

1180年9月(治承4年8月)の源氏大棟梁の頼朝挙兵の際には、庶長孫・里見義成竹林(高林)義俊の長子)が祖父の反対を押し切って、その従父・足利義兼(義包、義康の3男で嫡子、義清の異母弟)・族兄・山名義範(前述の義重の外孫)らとともに早期にその麾下に馳せ参じたのに対し、義重は次男・義兼と4男・世良田義季(得川義秀)らとともに一時的に中立を保った。

この背景には、源氏の重鎮・長老である義重は北関東での主導的地位にあり、まだ年若い族孫の頼朝を格下に見ていたことや、新田荘が平氏方の荘園であったこと、また、同じく族孫の木曾義仲(義賢の次男、頼朝の従弟)とは2代に渡る宿敵関係でこれを牽制した、といった要因が挙げられる。

しかし、頼朝の威勢興隆を報を聞いた義重は慌てて、子の義兼・義季とともに鎌倉に駆けつけるが、頼朝の不信感を容易に解くことはできず、御家人の安達盛長の仲介でようやく帰参が叶った。さらに、頼朝は亡き異母兄の義平未亡人となっていた娘の祥寿姫を恋慕して、その虜になった頼朝が側室に乞うも、頼朝の正妻の北条政子の勘気に触れることをおそれた義重はこれを拒否し、すぐに新田家の郎党・師六郎という人物に再嫁させたために、ますます頼朝の不興を買い、冷遇されたと伝えられている。

甥の足利義兼が逸早く頼朝の下に駆けつけた以後、代々執権家の伊豆北条氏と姻戚関係にあって強固に結びつくことによって幕府内での地位を保ったのに対し、義重の鎌倉政権内における立場は常に微妙であった。

このことが、河内源氏系の新田・足利両氏兄弟の処遇の差となって表れ、新田氏は冷遇され、それが南北朝時代までに続くことになる。ただし義重自身は源氏の最長老であり、頼朝さえも表面的には一定の敬意を払っていたようである。この頃に出家し、上西入道と称した。

晩年は、次嫡子の義兼とともに新田家の家督を継いだばかりの幼い曾孫の政義(孫の義房が早世したため)の後見役を務めた。1202年(建仁2年)に老衰のために新田荘で没した[7]

1193年6月4日(建久4年4月28日)、頼朝は下野国那須郡で鷹狩りの帰途に式部大夫入道上西新田舘にて遊覧している。没年の1202年2月8日(建仁2年正月14日)の記述に頼朝未亡人の北条政子が、蹴鞠の余興に耽った次男の2代目将軍・頼家(鎌倉頼家)に対して、「故仁田入道上西(義重)は源姓の重鎮であったが、その逝去からまだ20日もたっていないのに、将軍(頼家)は蹴鞠に興じるのは然るべからず」とはげしく叱責する記述がある[8]

家族[]

  1. 里見義俊 : 通称は大新田太郎(『長楽寺草写本源氏系図』(『長楽寺系図』)では里見四郎太郎、あるいは竹林(高林)六郎太郎)。里見氏(長男・里見義成の系統)・上野田中氏(次男・田中義清の系統)の祖。35歳の若さで父よりも先立った。
  2. 新田義兼 : 通称は小新田次郎/新田小太郎。生母は大和源氏一門の宇野氏の当主の宇野頼弘親弘)の娘。新田嫡本家を継ぐ。
  3. 世良田義光 : 通称は三郎/新田冠者(『尊卑分脈』)。生母は上野国あるいは武蔵国の遊女。父の義重から疎まれた。世良田氏義光流世良田氏 )の祖で、末裔は経広を経て松平氏徳川氏)ら。
  4. 世良田義季 : 別名は得川義秀、通称は四郎(『長楽寺系図』は次郎、『吾妻鏡』では三郎)、幼名は来王丸、法名は栄勇入道。新田義兼の同母弟。世良田氏(義季流世良田氏 )の祖。末裔は得川氏・江田氏・朝谷氏・常陸得川氏・因幡森本氏(因幡源氏)ら。
  5. 合土義澄 : 別名は額戸経義、通称は額戸(ごうど/ぬかど)五郎(『長楽寺系図』では三郎)、法名は法義入道。合土(額戸)氏の祖。
  6. 新田義佐 : 別名は義任、通称は小四郎/六郎。1181年(治承5年)に、ある戦いで戦死したと伝わる[9]
  7. 新田義盛 : 別名は義益、通称は七郎(新田宵子所蔵『新田岩松系図』)[10]/庄田冠者。
  8. 祥寿姫 : 源義平[11]室で、その間に維義(松井冠者)を儲ける。後に新田氏の郎党・師六郎に嫁ぐ。しかし、またもや夫に先立たれ、出家して妙満尼となり、父・義重より先立ったようである。
  9. 矢田義清室 : 義重の養子となった義清との間に庶長子の山名太郎三郎義範(山名太郎または三郎義節・伊豆守、山名氏の祖)を儲けた[12]
  10. 武田信光(石和信光)
  11. 平賀義隆
  12. 平賀義澄
  13. 平賀義資

※(備考)[13]

脚注[]

  1. 1135年(保延元年)生まれの説もある。
  2. 『天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例』(村川浩平/駒沢史学80号/2013年)が引用する 『孝亮宿禰日次記』によると、義重の末裔の徳川家康から、贈官された。
  3. 義重は幼くして生母を失い、嫡母である藤原敦基(藤原式家)の娘に育てられた。
  4. 丹姓の秩父国造の末裔、私市(きさいち・きさいし)氏(庶家に熊谷氏・久下氏など)とともに武蔵七党に属するという。
  5. 維義(松井冠者)の父。
  6. 『尊卑分脈』にある足利氏の系譜より。
  7. 『新田足利両家系図』によると享年89、『尊卑分脈』では享年68とする。
  8. 『吾妻鏡』による。
  9. 『上州新田一族』(奥富敬之/新人物往来社/1984年)では、小四郎義佐が出家し昌尊法師(『長楽寺系図』では別名を昌道法師)となったと伝わる。
  10. 『群馬県史 資料編4』収録)、『長楽寺系図』では新田太郎六郎、『巻外長楽寺系図』(『長楽寺系図』(源氏系図)の巻外に記載された別系図)では三郎。
  11. 義平の異母弟・頼朝が自分の正室に希望したことがある。
  12. 後に義範は外祖父・義重の養子となる。
  13. 『新田町誌』では、里見義俊・山名義範・新田義兼・得川義季・額戸経義の順序とする。

関連項目[]

先代:
源義国
新田氏初代当主
-
次代:
新田義兼