昭烈皇后(しょうれつこうごう)とは、中国の皇后の諡号である。約2名ほど存在する。
- 皇思夫人 : 蜀漢(蜀)の烈祖[1]穆帝(繆帝)[2]の劉備の側室で沛郡の人である甘夫人のこと[3]。興平末年の劉備が豫州牧時代に、従事の劉琰(劉炎)によって未亡人だった彼女を劉備の側室にし、その間に劉公仲・劉禅・劉永らを産んだ。糜夫人(麋竺の妹、麋芳の姉)とともに、女中のことを取り仕切った。208年の『長阪陂の戦い』(『長坂坡の戦い』)で趙雲に護衛されて、事なきを得た。翌209年に若くして逝去して、南郡に埋葬された。222年に諸葛亮の上奏で「皇思夫人」となった。223年に、彼女の棺は南郡から成都に移葬され、「昭烈皇后」[4]としての諡号を贈られた。
- 昭烈蕭皇后 : モンゴル系とツングース系の混合民族である契丹迭刺部の遼(燕漢)の粛祖・耶律耨里思の妻。太祖・耶律阿保機の高祖母で、夫とともに追贈された。