
『三国志』の主人公のひとりの覇王・曹孟徳
曹操(そうそう、154年/155年 - 220年)は、中国の『三国志』の主人公のひとり。字は孟徳[1](後述)、幼名は阿瞞。魏の太祖武帝。
三男の曹丕・五男の曹植とともに中国最大の文学者でもあり、同時に個人の出自・身分・人格を問わず、多様性な能力を評価した改革者でもあった。干支は午年。
また、自ら「わしは周の太祖文王(姫昌)になる」と述べた人物でもある[2]。身の丈は7尺[3]ほどである。同時に、劉備の好敵手としても、著名な人物である。
秦末~漢初の『鴻門の会』で主君の劉邦を裏切り、処刑された左司馬の曹無傷の末裔と伝わり[4]、後漢末の衛将軍・曹瑜の孫[4]、宦官で大長秋・中常侍の曹騰(曹瑜の従弟)の養孫、曹嵩(曹崇)の次男、嫡母は丁氏(孝大皇后[5]、異母兄・曹喬の生母)、生母は夏侯氏(諸説がある[6])。正妻は、早世した劉夫人[7](前孝武皇后)と離縁した丁夫人(後孝武皇后、丁氏の姪)、かつては側室だった卞氏(武宣皇后)ら。
概要[]

横山版の曹操(上)と劉備(下)
沛郡譙県[8]の人で、若いときは、父と叔父(後述)を困らせた“うつけ”な不良少年で、悪友の袁紹・張邈・鮑信[9]・劉勲・許攸らととも北方遊牧民族の匈奴(トルコ系)の使者をだまして、その花嫁を攫う行為を繰り返したと伝わる[10]。若き日の曹操が彼を評価した太尉・太中大夫である喬玄の薦めで、自分を評価してもらうために面会した人物鑑定家の許劭(許靖の従兄)から「君は治世の能臣で、乱世の奸雄であろう…」と評された。これを聞いた曹操はかえって大笑いして、喜んだという。
20余歳で孝廉に推挙され、尚書右丞・司馬防(司馬懿の父)の推薦で洛陽の北部都尉となり、厳格な法令で上官でも容赦せず、特に霊帝の寵臣だった小黄門・蹇碩[11]の叔父が夜間外出禁令に背き泥酔していたため、曹操はこれを撲殺して威厳を見せつけた[12]。以降から頓丘県令~議郎を歴任し、威厳がある法令を発揮してその名を轟かした。
184年に黄巾党の乱が起こると騎都尉となり、同年夏5月に穎川郡で皇甫嵩の部将として活躍し、朱儁配下の孫堅とともに太平道(黄巾党)の大賢良師(教祖)・張角の部将の波才を火攻めで討ち取る戦功を残した[13]。のちに済南郡の相から東郡太守に累進したが、病気を理由に赴任を拒否して帰郷した。彼は能書きだらけで合理的な実利に伴ってなく、貧民の人々を虐げるような粉飾的な道徳や仁徳を重んじる儒教を憎悪した人物として有名で、特に前漢の皇族である城陽景王の劉章を祀った現地の風習を「紛い物」の宗教として、これを徹底的に弾圧した。
188年に大将軍・何進の命で西園八校尉のうち典軍校尉に任命された。しかし、189年秋7月に何進が十常侍のひとりである中常侍・張譲と趙忠[14]らに暗殺されて、何進の招聘を受けた董卓が洛陽に乗り込むと、驍騎将軍に任命されるが、同年末に曹操は無断で拒否し、故郷に舞い戻った。その間に、王芬[15]・許攸・周旌らによる凡庸な霊帝(劉宏)廃位のクーデター計画に誘われるが、曹操は太古の伊尹・霍光と『呉楚七国の乱』を例に挙げて、これを断っている[16]。
翌年に東郡太守・喬瑁(喬玄の族子)とともに勢力圏の陳留郡酸棗県[17]で総勢25万人の反董卓軍を結成して挙兵し、盟友の袁紹を連合軍の盟主とした[18]。しかし、まとまりがなく董卓が20万余人を率いて長安に向かうと、この報を聞いた曹操は自ら1万余人の軍勢を率いて追撃したが、董卓の部将の徐栄の軍勢と戦って滎陽の汴水で大敗し、鮑信の弟の鮑韜(鮑忠)・衛茲[19]ら戦死者をだして敗走した(『汴水の戦い』)。190年春2月のことだった。間もなく曹操は連合軍から離脱した。
191年、渤海郡太守・袁紹の推薦を受けて、かつて赴任を辞退した東郡太守に任命された。翌192年に親友の済北郡の相・鮑信が兗州刺史・劉岱[20]を諌めるが、劉岱は聞き容れず青州黄巾党と戦い戦死した。まもなく、曹操は鮑信ら勧めで劉岱の後任として兗州刺史となり勢力を拡大した[21]。翌々193年、その青州黄巾党4万を自分の配下に加え、屯田策を実施し、引き続き陳留郡封丘県で南陽郡太守・袁術(袁紹の異母弟)を撃破して(『封丘の戦い』)、これを淮南郡寿春県に追い出し、かつての盟友だった袁紹と対立する準備を整えた。だが同年に戦乱のために瑯琊郡に避難して、曹操の招聘に応じた父と末弟が泰山郡の華県と費県の境目で、徐州刺史の陶謙の都尉である張闓に殺害され[22]、その財宝を奪った張闓は淮南郡に逃亡した。父の非業の死を聞いた曹操は、烈火の如く激しく怒り狂い、臣下の諫めを強引に振り払って、総勢34万人の徐州討伐を動員し無差別虐殺をおこした[23]。
しかし、翌194年夏に親友の張邈が曹操の参謀の陳宮とともに呂布をむかえ、反乱を起こしたので、曹操はやむなく撤退し、呂布率いる反乱軍と戦うが敗れて、曹操自身も火傷を負ったが、部隊長の典韋の働きで、無事に逃れた。さらに外従兄弟の夏侯惇が呂布の捕虜になるも、護軍の韓浩[24]の奮戦によって取り返した(『濮陽の戦い』)。しかし、翌195年夏から秋にかけて飢饉で衰弱した呂布軍と激突して、度重なる激戦の末に、呂布の部将で山陽郡鉅野県[25]に駐屯した兗州別駕従事史の薛蘭[26]と同治中従事史の李封を討ち取り、両人の救援に向かった呂布の軍勢を破ったのである(『定陶の戦い』、または『鉅野の戦い』)。同年秋に張邈は袁術を頼ったが部下に暗殺され、その弟で曹操嫌いの張超は雍丘で焼身自決し、遺された自分の家族は兄の家族とともに曹操に処刑された。ついに呂布は陳宮とともに徐州刺史・劉備を頼った。
翌196年に参謀の荀彧の進言で洛陽にいた愍帝[27](劉協)を穎川郡許昌県[28]に迎えて、ついに司空・鎮東大将軍に昇進した。197年春、南陽郡宛県にいる張繍[29]を討伐したが、その参謀の賈詡の策謀で敗れて、長男の曹昻・甥の曹安民・部将の典韋などを失い、淯水[30]まで撤退して、諸将の前でこの教訓を活かす演説をして、許昌県に撤退した。
198年、劉備とともに下邳郡にいた呂布を滅ぼした。200年、献帝の曹操討伐の密書を受けた董承[31]らを処刑した[32]。
同時に反旗を翻した劉備に対し、劉岱と王忠を先鋒大将に命じて、自ら討伐してこれを追い払い、下邳で籠城した関羽を劉備の妻子とともに捕虜にした[33]。その間に、賈詡の進言を受けた長子の仇である張繍の帰順を受け容れた。
同年に天下分け目の『官渡の戦い』で袁紹と戦い、客将の関羽が袁紹の部将の顔良を討ち取るなど激戦の末にこれを破り、名実とともに覇者となった[34]。袁紹が亡くなると、その長男の袁譚を滅ぼし、次男の袁煕と三男の袁尚と組んだトルコ系とツングース系との混合民族である烏桓(烏丸)を袁兄弟とまとめて滅ぼした。
207年、丞相に累進した。208年秋8月、犬猿の仲だった孔融一家を処刑した[35]。同時に益州(蜀)から、劉璋の使節の張松の訪問を受けるが、驕った曹操はこれを体よく追い払ったのである。
同年に荊州牧の劉表が亡くなると、曹操は50万の軍勢を率いて、南下した。その次男の劉琮を降伏させ、荊州の軍勢も併せて60万人を率いて、天下統一に動き出したが、『赤壁の戦い』[36]で、劉備と組んだ呉の孫権の部将の周瑜の軍勢に、自軍の疫病で戦意喪失も重って火攻めで大敗した。こうして三国時代(『三国志』)の幕が開けたのである。
209年、曹操と同郷で麻沸散の典医・華佗(華旉)が、士大夫として尊重されないことに不満で、無断で帰郷した。このことに対して曹操は激怒し、これを逮捕投獄し、過酷な拷問をした揚句に、荀彧の諌言を強引に振り切って処刑した[37]。
210年、『求賢令』を発足した。これは「才能さえあれば、他の事は不問にする[38]」[39]という、宗教嫌いを徹底的に貫き通し、「徹底能力主義」崇拝者である曹操らしい発想の驚愕な求人制度だった[40]。
211年、総勢12万人を率いて西涼の韓遂・馬超を撃破した。翌212年、曹操の漢王朝簒奪を執拗に固持し盛んに進言した荀彧に対して、九江郡(または淮南郡)寿春県でついに死を賜った[41]。
同年夏5月に洛陽に近い鄴県で隠居生活をしていた年老いた馬騰(馬超の父)が息子の反乱のために追い詰められたため、曹操に不満を持つ黄門侍郎・黄奎[42]と密談して、反乱を企てた。しかし、黄奎の下僕の苗沢(苗澤)が過失を犯したために主人の黄奎から死刑判決を受けたため、身の危険を感じた苗沢は曹操のもとに向かって、馬騰・黄奎らの反乱を密告した。それを聞いた曹操は馬騰と黄奎をはじめその一族郎党を捕らえて、市場に曳き出して皆殺しの刑に処し、晒し首とした[43]。
さらに西涼で韓遂の不穏の動きがあったので、曹操は人質としていた韓遂の息子や孫と幼い曾孫らも皆殺しの刑に処した。213年、魏公となる。
214年、自分を葬らんとした伏皇后(伏寿/孝献皇后[44])とその異母兄の伏典[45]および、伏皇后が産んだふたりの皇子[46]、伏皇后の腹心で宦官・穆順(繆順)らをまとめて粛清し、わが娘の曹節(献穆皇后)を皇后に指定した[47]。伏皇后は「暴室」という不衛生の監獄に送られて、間もなく死んだ[48]。
215年、総勢10万人を率いて漢中郡の道教系である五斗米道の教祖・張魯[49]を遠征したが、漢中地方の険しい山岳地帯に絶句した曹操が「このわしでさえ、こんな辺鄙で険しい山岳地帯の国を征服をすることは不可能だ。食糧も尽きたし、撤退しようでないか」と曹操らしからぬ台詞を述べ、丞相主簿の劉曄[50]に対して、後詰隊の諸軍に命じさせ撤退をはじめた。すると、劉曄は司馬懿とともに「このまま進撃して、張魯を降すべきです。でないと、蜀を占領した劉玄徳の存在はますます厄介になりまする」と進言した。曹操は劉曄と司馬懿の言を採り上げて、張魯を降伏させ、五斗米道の解体を命じた[51]。
216年、魏王となるが、曹操の魏王柵封に猛反対した最大の儒学者で中尉・崔琰[52]に激怒し、即刻に崔琰を逮捕投獄し、髠刑[53]に処した[54]。
218年正月に、太医令の吉本(吉丕/吉太[55])が子の吉邈・吉穆と同僚の金禕・耿紀・韋晃らと反乱を起こして、上記の鄴県、あるいは許昌県(許都)を攻撃して占拠を目論むが、曹操の腹心の王必[56]と典農中郎将の厳匡によって鎮圧されて、吉本らは捕らえられて、すべて処刑された。
同年に総勢20万人を率いて、蜀を占領した劉備の軍勢8万人と漢中郡の定軍山で戦った。219年春正月に、族弟の夏侯淵が法正の戦術の献策を受けた黄忠に討たれた。
身内の夏侯淵の非業の死に嘆き悲しんだ曹操は、あるとき食事中に鶏の料理を楽しんだ。そのとき曹操は「鶏肋、鶏肋…か」と呟いた。たまたま傍らにいた倉曹属主簿・楊脩[57]が、その言葉を聴いて「鶏肋(鶏の肋骨)は、捨てるには惜しいものですが、食べても満腹になるほど贅肉は厚くありません」と上奏した。これを聞いた曹操は「贅肉が厚くない…か」と呟き、楊脩の言い分をさっと感知した。要するに「戦いの最中に惜しいが、ただちに撤退する潮時である」と、読み解いて、漢中軍から撤退の準備を命じた[58]。これが同年夏5月のことだった[59]。
同年、冬11月ごろにかつて自分に仕えていた関羽[60]の首級が呉の孫権より届けられた。220年正月23日に、脳溢血または脳腫瘍[61]のために66歳または67歳で逝去した。『三国志』の風雲児たる曹操の波乱に満ちた生涯であった。
後世の織田信長と共通点があり、曹操も女性の存在を人一倍尊重し、優しかった人物といわれる[62]。

“ へうげた ”うつけ曹操
その末裔[]
余談になるが、325年、曹操の玄孫・曹勱[63]が東晋の粛宗明帝・司馬紹(司馬懿の玄孫)から陳留郡公に封じられ、363年に死去した。その子の曹恢が跡を継ぎ、383年に死去した。その子の曹霊誕が跡を継ぎ、408年に死去した。その子の曹虔嗣が後を継いだ。420年、劉宋=宋漢の高祖武帝の劉裕が東晋から禅譲を受け建国した際に、劉裕への禅譲を勧める上奏書に、陳留郡公の曹虔嗣が名を連ねているが、同年に死去し、曹虔嗣に子がなかったので、その弟の曹虔秀が後を継ぎ、462に年死去した。その子の曹銑が後を継ぎ、473年に死去した。曹銑に子がなかったので、その弟の曹粲が後を継いだ。479年、南斉の太祖・高帝(高祖)の蕭道成が禅譲を受け建国した際に、蕭道成に禅譲を勧める上奏書に、陳留郡公の曹粲が名を連ねている。しかし同年秋8月、曹粲は不祥事を起こしたため、爵位を除かれた。
このように曹操の末裔が南斉の時代までに爵位を保って在続したのである[64]。

『宛城の戦い』で張繍に大敗した直後の曹操
親族[]
子[]
- 曹昻
- 曹鑠 : 字は子矍あるいは子鑊[4]
- 曹丕 : 諡号は文帝。廟号は『魏書』明帝紀にある237年(景初元年)夏6月の項では「高祖」、『資治通鑑』「巻六十九・魏紀一」では「世祖」[65]
- 曹彰 : 曹章とも呼ばれる[66]
- 曹植
- 曹熊 : 字は子威[67]
- 曹上
- 曹彪 : 字は朱虎[68]
- 曹沖
- 曹林 : 字は子穆(子繆)[4]。曹豹とも呼ばれる[66]
- 曹処(曹處)[69]
- 曹勤
- 曹宇
- 曹矩
- 曹袞
- 曹幹
- 曹玄[70]
- 曹峻
- 曹乗
- 曹整
- 曹京
- 曹均
- 曹棘
- 曹徽
- 曹茂
父祖[]
祖父[]
従祖父[]
- 曹鸞 : 字は伯興。後漢末の永昌郡太守[73]
- 曹褒 : 字は仲興。穎川郡太守となった。166年に没した[74]
- 曹鼎① : 字は叔興。河間郡の相・尚書令となった。曾孫に曹冏がいる
- 曹勛(曹勳) : 字は幼興/稚興。曹洪の父。妻は夏侯氏(夏侯惇の叔母)。山陽郡太守となった
父[]
叔父[]
従父・族父[]
- 曹鼎② : 字は景節。曹鸞の子、曹水(曹遂)の父、曹休の祖父。呉郡太守となったが、父の上奏に連座されて処刑された
- 曹熾(曹燦) : 字は元盛[78]。曹褒の子、曹騰の甥、曹仁・曹純兄弟(曹騰の従孫)の父、大中大夫・司馬・長史を歴任し、長水校尉・侍中となった。182年に40歳で没して、15歳になる次男の曹純が後を継いだ[74]。諡号は陳穆侯
- 曹胤 : 曹褒の弟。会稽郡太守(会稽曹君)となった[79]。177年に没した[74]
兄弟[]
兄[]
弟[]
- 曹彬① : 曹操の弟
- 曹玉 : 曹彬①の弟
- 曹疾 : 曹玉の弟で末弟。『後漢書』宦者伝による。『魏書』武帝紀では曹徳[81]、『魏書』夏侯淵伝にある「海陽哀侯」と同人物とされ、その娘が同族の夏侯淵の長男・夏侯衡の正室となった
従兄弟・族兄弟[]
- 曹邵 : 字は伯南[82]、曹真の父、曹忠の子。190年、曹操の挙兵に呼応するが、豫州刺史の黄琬の配下の沛郡の相・袁忠によって、弟の曹慮とともに殺害された[83]
- 曹慮 : 曹忠の次子で曹邵の弟で曹遵の父。兄とともに殺害されたという[4]
- 曹洪 : 字は子廉[84]
- 曹仁 : 字は子孝、曹騰の兄・曹熾(曹燦)の孫、曹褒の子[85]
- 曹純 : 字は子和、曹仁の同母弟[86]
- 曹水(曹遂) : 曹鸞の孫、曹鼎②の子、曹休の父。豫州刺史となったが、祖父の上奏で、父が連座で処刑されたために、官職を辞して故郷を出奔して、若くして逝去した
- 夏侯惇 : 字は元譲。曹操の母方の従兄弟という[87]
- 夏侯廉 : 夏侯惇の弟
- 夏侯淵 : 字は妙才、夏侯惇の又従弟、妻は曹操の妻の妹[88]
甥(従子・族子)[]
甥[]
- 曹安民 : 諱は未詳、曹喬の子という
従子[]
- 曹真 : 字は子丹、曹邵=曹紹の子、曹忠の孫
- 曹彬② : 曹真の弟[89]
- 曹遵 : 曹真の従弟、曹慮の子[90]
- 夏侯充[91] : 夏侯惇の長子
- 夏侯楙 : 字は子林、夏侯充の弟、妻は曹操の長女・清河長公主[92]
- 夏侯子臧 : 諱は未詳[93]、夏侯楙の弟
- 夏侯子江 : 諱は未詳[94]、夏侯子臧の弟
族子[]
- 夏侯尚 : 字は伯仁、夏侯淵の甥(兄の子)[98]
- 夏侯某 : 諱は未詳、夏侯尚の弟、夏侯奉の父
- 夏侯儒 : 字は儒林、夏侯尚の従弟
- 夏侯衡[99] : 夏侯淵の長子、曹操の義姪婿[100]
- 夏侯覇 : 字は仲権、夏侯淵の次子[101]
- 夏侯称:字は叔権、夏侯淵の三子、19歳で夭逝
- 夏侯威 : 字は季権、夏侯淵の四子
- 夏侯栄 : 字は幼権、夏侯淵の五子、219年に父とともに戦死を遂げた。享年14
- 夏侯恵 : 字は稚権、夏侯淵の六子、37歳で逝去した
- 夏侯和 : 字は羲権(義権)、夏侯淵の末子
- 夏侯文寧 : 諱は未詳[102]、娘が曹文叔[103]に嫁いだ
脚注[]
- ↑ もとの字は吉利。
- ↑ 自分は漢王朝を簒奪しないという意味である。
- ↑ 約168㎝~169㎝
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 『元本』(『元大徳九路本十七史』、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書)による。
- ↑ 220年夏5月に献帝(愍帝)は、丁氏を王太后に追贈したと記述されている。
- ↑ 諡号は不詳。
- ↑ 揚州刺史の劉馥と同族という。
- ↑ 現在の安徽省亳州市、または河南省永城市
- ↑ 前漢の司隷校尉・鮑宣(渤海郡高城県の人)の9世孫。
- ↑ 『世語』および『曹瞞伝』
- ↑ 宦官、後の上軍校尉。
- ↑ そのため、曹操は蹇碩の恨みを買ったという。
- ↑ 『後漢書』皇甫嵩伝
- ↑ ともに宦官。
- ↑ 隴琊王氏で冀州刺史であった。
- ↑ 『魏書』武帝紀が引用する『魏書』(王沈著)より。
- ↑ 現在の河南省開封市~鄭州市周辺
- ↑ その間に何進の子・何咸未亡人の尹氏を自分の側室に迎えたという。
- ↑ 衛臻の父。
- ↑ 楊州刺史・劉繇の兄、漢の宗室。
- ↑ 後に鮑信は曹操の身代わりとなって戦死を遂げた。
- ↑ 韋曜箸『呉書』より。
- ↑ 後年の織田信長も似たようなことを実施している。
- ↑ 長沙郡太守の韓玄の従兄で、韓栄(韓玄の子)の族父かつ養父(『元本』)。
- ↑ 現在の山東省渮沢市巨野県
- ↑ 薛衍の子、薛永(茂長)の父、薛斉(夷甫)の祖父。
- ↑ 魏からは献帝と諡された。
- ↑ 現在の河南省許昌市許昌県
- ↑ 驃騎将軍・平陽侯の張済の族子。
- ↑ 現在の河南省南陽市白河流域あたり
- ↑ 献帝(霊帝の次子)の祖母・孝仁皇后(永楽太后)の従子(従兄の子)である。同時に献帝の岳父で、驃騎大将軍・董重の族弟でもある(裴松之の引用)。ただし、異説では「(董承は)霊帝の生母・董太后の従子で、献帝の従父にあたるとするのは誤りである」と述べている(『先主伝集解』)。
- ↑ 献帝の后で、董承の娘・董貴人は献帝の子を身ごもっていたが、曹操は献帝の嘆願を強引に却下し容赦なく絞殺した(異説では、名門出身の荀彧・鍾繇らが董承一味に加担すれば、曹操は48歳で『中国版の本能寺の変』によって壮絶な最期を遂げる可能性が高く、もしそのような結果となれば劉備の「漢王室再興」は実現していた見方がうかがえたという)。
- ↑ 関羽の項目を参照。
- ↑ その間に、捕虜にした袁紹の幕僚である「建安七子」のひとりである陳琳に曹操の父祖を詰る檄文が読まれて、これを聞いた曹操は激怒して「わしの悪口はよいが、なぜわしの父祖の悪口を申すのだ?」と詰問して、陳琳は「放った矢を射ぬわけには参りませぬ」と反論して、かえって赦された逸話があった。前述のように曹操は高祖・劉邦を裏切った左司馬の曹無傷の末裔で、漢王朝における「謀反人の家系」であったことを陳琳が詰った可能性がある。
- ↑ 孔融の妻と娘および、ふたりの外孫(娘の子)である9歳の羊承(羊衜の子、羊祜の異母兄)と7歳になるその妹らが誅殺された(『後漢書』孔融伝)。女婿の羊衜は孔融の娘と離縁された揚句に、免職されたという(ただし『晋書』羊祜伝では、羊承の同母弟の羊発は幼少のために、処刑されずに、長命して官職は西晋の都督淮北護軍まで累進したと記されている)。
- ↑ 『江表伝』では『烏林の戦い』。
- ↑ しかし、華佗を処刑したため名医が不足し、溺愛した8男・曹沖が病のためにわずか14歳で夭逝したため、曹操は愛息の死を嘆いて華佗を殺害したことを悔やんだという。
- ↑ 出自・身分・人格を一切問わないことを指す。
- ↑ 原文「唯、才在らば、是を挙げよ、吾、得て是を用いん」
- ↑ 曹操は経済を発展するために、歴史最古の『楽市・楽座』の法令制度も発足したともいわれる。
- ↑ 北宋の司馬光の『資治通鑑』巻66/漢紀58/建安17年秋10月の条の引用によると、唐の官僚&文人の杜牧は「荀彧は漢王朝の忠臣とされるが、とんでもない。彼は曹操と同じく簒奪泥棒である。たとえば泥棒の首謀者である曹操が空き家の壁を破って、財宝の箱を開けて奪っておきながら同伴した荀彧自身が泥棒ではないといえるだろうか?!」と荀彧を酷評している(司馬光自身は荀彧を「漢の大忠臣」と絶賛している)。しかし清の趙翼は自著『廿二史箚記』で「陳寿も杜牧も間違っている。『魏書』荀彧伝にある彼の年長の従子・荀攸と賈詡の伝記と同列扱いするのはまことに怪しからん。(前述の)北宋の司馬光著『資治通鑑』および宋漢=劉宋の范曄著『後漢書』にある大儒者・孔融と同列の伝記に記しているのが正解である!」と感情的に反論している。
- ↑ 字は宗文、黄琬の子、来敏の外甥。
- ↑ 『後漢書』孝献帝紀
- ↑ 生母は「盈」(姓は不詳)という諱の人物で、伏完の側室である。
- ↑ 生母は威宗桓帝(劉志)の長女の陽安公主・劉華で、長兄の伏徳(伏悳)は早世した。
- ↑ 曹操の命で酖毒で殺害された。
- ↑ 『三国志演義』では父の伏完もまとめて殺害されたというが、209年に伏完は逝去している(『後漢書』献帝伏皇后紀)。
- ↑ 毒殺の説もある。
- ↑ 張陵(道陵)の孫、張衡の子。
- ↑ 後漢の世祖光武帝の子である阜陵質王・劉延の系統の分家である成悳侯・劉普の次男、世子・劉渙の同母弟。
- ↑ 『魏書』劉曄伝および、それを引く『傅子』による。
- ↑ 崔琰は孔融の盟友である。
- ↑ 断髪の刑。
- ↑ その後、曹操は崔琰に刑罰専用の道具を使用し崔琰を辱める旨を伝えたため、これを聞いた崔琰は屈辱と受け取り壮絶な自決を遂げ果てた。齢54。
- ↑ 字は称平。吉茂(字は叔暢、吉黄の同母弟)の一族とされる(『三国志』魏書常林伝が引く『魏略』(『典略』)に立伝されている)。
- ↑ 王雄の父とされる。
- ↑ 楊修とも、太尉・楊彪の末子、袁術の外甥。
- ↑ 『魏書』「武帝紀」が引く『九州春秋』
- ↑ その後、楊脩は曹操の五男・曹植の「四友」(他に邯鄲淳(老人)、丁儀・丁廙(『文選』では「丁翼」)兄弟ら)の筆頭格として活躍したが、激怒した曹操から「袁術の外甥のくせに、わが倅に要らぬ節介な入れ知恵を含ませ唆しおった」と不興を買って、楊脩は処刑された。219年冬10月半ばごろだったという。
- ↑ 関羽が北上した際、それを恐れた曹操は遷都を建議したことがある。
- ↑ その他に脳疾患、脳梗塞の説もある。
- ↑ 離縁した丁夫人を迎えに行った逸話がいい例である。
- ↑ 元帝・陳留恵王の曹奐の孫。
- ↑ 『晋書』および『宋書』など、さらに『南史』巻4「斉本紀」の高帝(蕭道成)本紀で昇明4年(479年)夏4月辛卯の記述に「宋(宋漢/劉宋)朝王公以下陳留郡公粲等,詣門陳請,帝(蕭道成)猶未許」とある。さらに、陳留は前年の夏4月に蕭道成の封地となったという記述もあり、いずれも『南斉書』には記述されてない。
- ↑ ただし、東晋の孫盛はこの廟号に異論を唱えている。異説では「太宗」とも。
- ↑ 66.0 66.1 『文選』が引く『魏略』より。
- ↑ 嘉靖本『三国志宗寮』より。
- ↑ または子虎とも呼ばれる(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。
- ↑ 曹拠(曹據/曹据)は誤りとする(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。
- ↑ 曹玹は誤りとする(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。
- ↑ 『武帝紀集解』より。別名は「曹節」。
- ↑ 『魏書』明帝紀には宦官でありながら妻の呉夫人がいたと記述されている。
- ↑ 曹騰の長兄、曹鼎①の父、曹水(曹遂)の父、曹休の曾祖父(後述)、曹操の養大伯父と伝わる。
- ↑ 74.0 74.1 74.2 隋の酈道元著『水経注』より。
- ↑ 『世語』『曹瞞伝』では夏侯某の子とする(ただし、裴駰(裴松之の子)の『史記集解』によると、前漢の夏侯嬰の末裔ではなく、同時に蜀漢の孫乾とは血のつながりがない赤の他人であり、また曹嵩は曹騰の従兄弟の子で、妻が夏侯氏(夏侯惇の叔母で曹操の母?)とする異説もある。
- ↑ 『春秋讖』では、曹嵩の前名。
- ↑ 上記同様に曹嵩の異母弟であり曹騰の兄、または従兄弟の子とする異説もある。
- ↑ 安徽省阜陽市亳県の博物館「亳県曹操宗族墓葬」所蔵『文物』8期頁33(1978年)に、曹一族の墳墓から「長水校尉曹熾字元盛」と刻まれたレンガが出土した。
- ↑ 『曹操 - 魏の武帝 』(石井仁/新人物往来社/2000年)の巻末系図 → 『魏の武帝 曹操 - 正邪を超越した史上屈指の英傑 - 』(石井仁/新人物往来社文庫/2010年)の巻末系図より。
- ↑ 『魏書』武帝紀では、曹安民は曹操の弟の子と記されている。
- ↑ あるいは曹徳秋。
- ↑ 郎中の曹紹と同人物という。
- ↑ 曹邵の項を参照のこと。
- ↑ 『魏書』曹洪伝では尚書令・曹鼎①の甥(また、曹洪は曹騰の末弟の子で、曹操より1世代上の「族父」(年少の「おじ」、前例:荀彧と荀攸のような関係の可能性もある)である。また、曹洪の生母が夏侯氏(曹操の母方の叔母)という。父は「山陽郡太守・曹勛(曹勳)」(曹萌の末子で、字は幼興?)という。
- ↑ 『魏書』曹仁伝では曹熾が父で曹褒が祖父と記されている(曹萌の息子たちの字である「興」の共通点から連想しにくいため、ここでは曹仁の祖父は「曹熾」、父を「曹褒」で通す。
- ↑ 『水経注』によると、父は39歳で没し15歳で継いだ。また、同じく『水経注』では「会稽曹君」こと会稽郡太守の曹胤は叔父(父の弟)で、177年に「後漢の謁者(曹胤)が逝去した」と記述されている。
- ↑ 『世語』および『曹瞞伝』によると、夏侯氏出身の曹嵩の兄の子。「かこうしゅん」とも表記される。曹操・曹洪の母方の従兄弟の説もある。
- ↑ 劉夫人か丁夫人の妹とする。
- ↑ 一説に曹煕の祖父という。
- ↑ これも、一説に曹煕の祖父という。
- ↑ 字は「子閭」あるいは「子盧(子廬)」とも伝わる。
- ↑ 夏侯佐の父と伝わり(『元本』(『元大徳九路本十七史』))、晋の時代に高安郷侯となり、266年に逝去した(孫盛著『晋陽秋』)。
- ↑ 一説に夏侯傑とも。
- ↑ 一説に夏侯存とも。
- ↑ または、子烈とも呼ばれる(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。
- ↑ 『後漢書』党錮伝および宦者伝にある尚書令の曹鼎①(曹騰の兄で字は「叔興」と伝わる(『後漢書』蔡衍伝によれば「曹騰の弟」で、盧弼著『三国志集解』では「曹騰の兄」)と、曹鼎②とは別人)の孫。父は「豫州刺史・曹水(曹遂)」という)。
- ↑ 曹騰の兄の字は伯興・仲興・叔興(曹仁・曹純兄弟の祖父と曹休の曾祖父が該当する(曹洪は該当しない))で、曹騰自身の字は季興である(他に曹騰の兄のうち、「伯興」は曹鼎①の字とされ、「仲興」は曹熾(曹仁の祖父)の字として該当される。叔興の諱は「曹鼎①」とされ、その曾孫に曹冏がいる)。
- ↑ 父の諱は夏侯得(『三国志演義』では夏侯徳)と伝わる。
- ↑ 字は伯権/孟権という。
- ↑ 曹操の弟・海陽哀侯=曹疾の娘婿である。
- ↑ 劉備の女婿で、夏侯献の父と伝わる(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。
- ↑ 一説に夏侯恩とも。夏侯惇の甥で夏侯廉の子と伝わる。
- ↑ 曹真の甥、曹彬②の子と伝わる。