日本通信百科事典
Advertisement

曹鼎(そうてい)とは、『三国志』に登場するの皇族かつ宗室[1]。約3名ほど存在する(そのうち1名は非皇族)。

  1. 曹鼎 (尚書令) : 字は叔興。曹萌(曹節)の子、高帝・曹騰(曹操の養祖父で宦官)の兄[2]、驃騎大将軍・曹洪[3]の伯父。曾孫に『六代論』の著者・曹冏がいる。河間郡の相をつとめたとき、冀州刺史の蔡衍が、曹鼎が汚職をしていると弾劾し、末弟の曹騰は兄を許すために蔡衍に嘆願したが、蔡衍は曹鼎を逮捕投獄した。後に釈放され、尚書令を歴任した。甥の曹洪を蘄春県の長に推挙した[4]
  2. 曹鼎 (呉郡太守) : 上記の叔父・曹鼎(叔興)と同姓同諱である。字は景節。曹騰の兄・曹伯興[5]の子、大司馬・曹休(曹操の族子)の祖父、子は「豫州刺史・曹水(曹遂)」とされ、北魏(代魏)[6]の司徒記室・曹世表[7]はその後裔にあたる。孫の曹休はこの祖父を尊敬していた。孝廉に推挙され、後に呉郡太守となった。176年夏5月に『第一次・二次の党錮の獄』で党錮の禁を受けた清廉派の党人を釈放するように霊帝に諌言し、その不興を買った老齢の父に連座して処刑された。
  3. 曹鼎 (明) : 真定府寧晋県(現在の河北省邢台市寧晋県)の人。の太傅・曹鼐の弟。進士に及第し、給事中まで累進した。

脚注[]

  1. 歴史学者の堀敏一(西嶋定生の盟友)は曹一族の「曹鼎」は2人いたと述べている。また、『曹操 - 魏の武帝 』(石井仁/新人物往来社/2000年)の巻末系図 → 『魏の武帝 曹操 - 正邪を超越した史上屈指の英傑 - 』(石井仁/新人物往来社文庫/2010年)の巻末系図でも、出土資料に基づいて曹鼎は曹騰の兄の子としたり、曹休の祖父の呉郡太守のことを「曹鼎」であるとも述べている。
  2. 盧弼著『三国志集解』にあるの趙一清の言である「『魏書』武帝紀の裴松之注釈では、曹騰が末弟であることから曹騰の兄が正しい」と述べている。また、范曄著『後漢書』蔡衍伝・党錮列伝では「曹騰の弟」と記されている。
  3. 曹操の族弟、あるいは曹洪は曹騰の末弟の子で、曹操より1世代上の「族父」(年少の「おじ」、前例:荀彧と荀攸のような関係)可能性もある。また、曹洪の生母が夏侯氏で曹操の「叔母」の可能性も考えられる、父は「山陽郡太守・曹勛(曹勳)」(字は幼興? 曹萌の末子)という。
  4. 『魏書』曹洪伝が引用する『魏書』(王沈著)より。
  5. 永昌郡太守・曹鸞ことだという(『後漢書』霊帝紀)。
  6. トルコ系鮮卑拓跋部の王朝。
  7. 曹慶の子。
Advertisement