
源姓木曾氏の家紋の隅切り角に笹竜胆
木曾氏(きそし)とは、陽成源氏流河内源氏の直系の源姓鎌倉氏(源家/相模源氏)の庶家(信濃源氏)。で、源姓木曾氏ともよばれる。
同族に下野源氏の下野堀江氏(摂津堀江氏)・吉見氏(武蔵源氏/伊勢源氏/能登源氏/石見源氏)・阿野鎌倉家(駿河源氏)・下野中村氏(下野源氏)などがある。
概要[]
源為義の次子の義賢は父から溺愛され、長子の義朝(義頼)を廃嫡する動向が見られた。
そこで、義朝は先手を打って、16歳になる庶長子の義平(悪源太)に命じて、異母弟の義賢を武蔵国比企郡大蔵郷(現在の埼玉県比企郡嵐山町)にて、義賢とその岳父の秩父重隆を討ち取り、そのために義賢の子の仲家と駒王丸(木曾義仲)はそれぞれ、畠山重能・斎藤実盛(藤原北家利仁流)の計らいで、京と信濃国西筑摩郡木曽福島(現在の長野県木曽郡木曽町福島大字)に逃れた。
駒王丸は乳父であった中原兼遠のもとに養育され、兼遠の子である樋口兼光・今井兼平兄弟とともに育ち、元服すると木曾次郎義仲と称した。
やがて、従兄の頼朝は挙兵すると、義仲も以仁親王の令旨を持参した叔父の行家(義盛)と会見して、まもなく樋口兼光・今井兼平兄弟をしたがえて、挙兵した。
義仲は依田城にて、桓武平氏流大掾氏(常陸平氏)の庶家である越後城介の越後城氏(越後平氏)の当主である城長茂(助茂)を蹴散らして、『富士川の戦い』での敗戦の挽回を試みた伊勢平氏の直系である平家(六波羅氏)一門の平維盛の軍勢を越中国と加賀国の境目である倶利伽羅で撃破した(『倶利伽羅の戦い』)。
その後は、以前に以仁親王の令旨を全国の源氏に発した行家が甥の頼朝と諍いを起こしたために、義仲は叔父の行家を匿った。これを不義とした頼朝は1182年冬に木曾福島に討伐したが、義仲の長子で清水(志水)冠者の義隆[1](義高[2]/義重[3]/義基[4])を従兄である頼朝の長女の大姫の婚約者として人質に差し出して、頼朝は鎌倉に引き揚げた。
義仲は、翌1183年秋に5万の軍勢を率いてそのまま京に快進撃して、平家を追い出して、入京した。義仲は後白河法皇によって従五位・左馬頭・越後守・伊予守に任じられ、「旭(朝日)将軍」と号した。しかし、義仲の軍勢が狼藉行為をしたため、後白河法皇と不和となり、さらに叔父の行家とも諍いを起こし、5万の軍勢はの大部分が各地に帰ったために、義仲のもとには1万余の軍勢しかいなかった。
京を追い出された平家が備中国で勢いを盛り返したために、後白河法皇は義仲に討伐を命じた。義仲は従父である足利氏(下野源氏)一門の矢田義清・梁田義長(簗田義良)兄弟と海野幸広に7千騎を与えて、備中国水島に討伐させた。しかし、義清らは平知盛と教経(国盛)の軍勢に敗れて戦死を遂げた。このときに後白河法皇は「征夷大将軍」を求めた義仲を除くために比叡山の僧兵に義仲討伐を命じたために、激怒した義仲は僧兵を壊滅して法皇とその孫である後鳥羽天皇を幽閉した。
ひそかに法皇の命を受けた使者が鎌倉の頼朝のもとに義仲討伐の院宣を携えて、頼朝に面会した。院宣を受け取った頼朝は異母弟の範頼・義経と戦目付の梶原景時に6万騎の軍勢を与えて義仲を討伐させた。1183年の12月のことであった。翌1184年正月に義仲は宇治川で範頼・義経の軍勢を迎え撃ったが、わずか3千騎しかいないために、敗れてしまった。同時に義経は法皇と天皇を救助したために、義仲は近江国粟津に逃れたが、義経の追撃を受けて源氏方で三浦氏流蘆名氏一門の石田為久(為重とも、碓井貞光の後裔で、三浦義澄の族子)に討ち取られ、その郎党ふたりが義仲の首級を挙げた[5]。享年32。同時に樋口兼光・今井兼平兄弟も討たれた。義仲と仲違いをした叔父の行家は、おなじく甥の義経に接近したといわれる。
数ヶ月後に義仲の子の義隆も、頼朝の命を受けた堀親家の郎党である藤内光澄によって武蔵国入間川付近で討ち取られた。享年13。同時に義仲の次子の万寿丸こと義宗(義茂/経義/義佐(義任)/義光[1])も、夭逝したために、源姓木曾氏はここで断絶した。
そこで、義宗の外祖父でもある上野国の藤原北家秀郷流沼田氏の当主の沼田家国(伊予守)の子の基宗が、義兄の義仲の後を継いだ。
この藤姓木曾氏は、後に義仲流と仮冒して、戦国時代には武田氏(甲斐源氏)に仕えた木曾義康・義昌父子が出た[6]。