李厳(りげん)とは、中国の人物。約3名ほど存在する。
- 李厳 (漢) : 後に「李平」と改称する。字は正方、李豊の父。南陽郡(現在の河南省南陽市)の人。蜀漢(蜀)の政治家。有能で劉備の信頼が篤かった。後に、諸葛亮に九錫を受けて王位に即くように進言したことがある。晩年は、自己利益や名誉欲に溺れてしまい食糧輸送の怠慢による不正問題で、諸葛亮の弾劾を受けて懲戒免職にされて梓潼郡(梓橦郡)に流罪された。
- 李厳 (五代) : 五代十国時代のトルコ系突厥沙陀部の後唐の部将。前蜀を滅ぼすなど大功を立て、その後も西川に駐屯したが、孟知祥(後蜀の高祖)が反乱を起こしたときに殺害された。
- 李巌 : 前名は「李信」、別称は李厳。字は貢生。李春茂(李精白)の子、李牟の兄あるいは従兄、妻は陳氏と孔氏。1606年生まれ。汴州杞県(現在の河南省開封市杞県)の人。科挙に合格して官吏となった。貧民に対する援助を実施して有力者の反感を買い、投獄された。1640年に、順の皇帝の李自成に帰順して、均田免糧を構想した。「闖王(李自成)を迎えれば、糧を納れん」の唄を作成し、貧民に支持された。1643年に制将軍に任命された。翌年1644年に北京を陥落すると、明の部将・呉三桂の招聘を試みるが、断念した。ツングース系女真愛新覚羅部の皇族将軍・ドルゴンが率いる清の軍勢が中原に侵入すると、李自成らは北京から脱出した際に、李巌は軍勢を率いて河南を奪回するべく志願したが、政敵の牛金星・牛佺父子の讒言によって、誅殺された(『李氏家譜』)。